今井一(「住民投票立法フォーラム」事務局長)

重要案件については、一定数の主権者からの請求があれば議会の権限を抑え、国民の直接投票によってその是非を決する制度を設ける。



国民投票を法制化し、これを活用するために、以下の規定を設ける。

憲法改正
〈 国民発案/国民表決 〉

・衆参両院の総議員の3分の2以上の賛成で国会が憲法改正を発議したときに実施する。←現行の制度
・有権者300万人(有権者総数の約3%)以上の連署による憲法改正の請求があった場合に実施する。←新設すべきと考える制度



法律の制定および改廃
国際条約の批准および廃止
〈 国民発案/国民表決/国民拒否 〉

・法律の制定および改廃、国際条約の批准および廃止について、衆参両院がその賛否を主権者に問うべく国民投票の実施を提起したときに実施する。
・法律の制定および改廃、国際条約の批准および廃止について、有権者150万人(有権者総数の約1.5%) 以上の連署による請求があった場合に実施する。
←新設すべきと考える制度



国民発案とは、法律、条約の制定・改廃、批准・廃止など、国家意思の成立について国民が発案権を持ち、その発案の是非を決すべく行なわれる国民投票。

国民表決とは、議会で採択されていない法律案、または議決は経たものの、法的効力を発していない法律などについて、効力を持たせるか否かを決すべく行なわれる国民投票。

国民拒否とは、法律・条約など、国家意思が法手的効力を発した後、一定期間内に一定数の国民が、その国家意思について連署により「拒否」の意思表示をしたとき、その国家意思の是非を決すべく行なわれる国民投票。 




間接民主制においては、代表者(議員や首相)による決定に国民の意思が確実に反映されることによって国民主権が保証される。だが、「愚かな大衆を、賢明なわれわれが導かなければ、日本国は道を誤る」──という信念からか、多数派議員と、政策面で彼らをコントロールする官僚らは、どんなに国民が嫌がってもそれを確信犯的に無視し、脅したり賺(すか)したり騙したりしながら、自分たちが敷いたレールの上を走る列車に「主権者御一行様」を積み込もうとする。そして、多くの国民は彼らの思惑通り、羊のようにおとなしくその列車に乗り込んできたのだ。こうして「国民主権」はいつしか形骸化し、多数派議員と官僚がリードする「議会主権」がそれに代わった。

「主権」というのは、国家の政治上の最終的な意思決定を行なう権利のこと。したがって「国民主権」とは、国民が国家や自治体の意思に関して最高の決定権を持っていることにほかならない。例えば、「軍備」「原発」「天皇制」など、国の重要課題について、その国家意思を最終的に決定するのは、議員でも官僚でもなく、国民自身でなければならない。それは、権利であると同時に主権者としての義務でもあるのだ。したがって、誤りのない決定を下すために、国民はそれらの案件についてよく学び、話し合い、考える必要がある。

だが、敗戦による体制の変化に伴い「天皇の臣民」から一躍国家の主権者となった日本国民は、この50年間、果たしてその地位にふさわしい姿勢を貫いてきただろうか。主権者でありながら、主体的に政治に働きかけたり、政治的問題について他者と語り合うといったことを避けている国民が少なからずいる。通勤通学の途中で同僚や学友に会っても、「天気」や「スポーツ」といった当たり障りのない話題に終始するなど、この国では、公的な場所で市民が「安保」や「原発」について論じ合うというような光景がほとんど見られない。こういった幼児のような姿勢では、議員や官僚に主権を蔑ろにされても仕方がない。
何より、このような国民疎外の現実を是正することこそが、主権者が果たすべき一番の責務であり、その作業を誰かほかの者が担ってくれるなどと考えるのは甘すぎる。ましてや、議員や官僚にそれを期待するのは余りに愚かしい。では、何をなすべきなのか。間接民主制が破綻した今、国民は自分たちの意思がまっすぐに国勢に反映される新たな制度、つまり、直接民主制(国民投票)の導入を果たすしかない。

国会の議決を覆す国民投票。その威力は絶大なのだ。国民が納得しない政策や法律は通らないというこの制度が導入されれば、党利党略・私利私欲で行動している議員や、彼らを使って自らが立案した政策を思いのままに立法化してきた官僚たちは、これまで手にしていた権力や権益をほぼ失い、本来あるべき姿、つまり「国民の公僕」と化していくことになる。 
 例えば「原発」。本来なら、8O年にスウエーデンが行なったように、日本においても政府自らが「原発の是非を問う」国民投票を提起すべきなのだが、わが国の倣慢な「公僕」には、とてもそういった動きは期待できない。だから、国民の強い要望を国政に反映させるためには、先ほどあげた「拒否権」発動の国民投票に加えて「発案権(イニシアティブ)」としての国民投票を法制化しなければならない。イタリアでは、87年に起きたチェルノブイリ原発の事故直後に、市民団体や政党が中心になって、国民投票の実施に必要な有権者の請求署名をとり集め、「原発建設における政府権限の制限」など5項目について、その賛否を問う国民投票を実施している。
 原発のほかにも、例えば、スイスではこの国民発案によって、過去に「核兵器の製造及び使用禁止」や「軍備廃止」の是非を問う国民投票が実施されたが、こういった直接民主制に基づく法規定があれば、たとえ政府や官僚が国民の「声」を無視しようとしてもそうはいかず、有権者はさまざまな法案を提起することによって、主権者として主体的に政治にかかわっていく道が大きく開けるのだ。こうなると、政治に関心を持ちながら選挙をボイコットしている「無党派」の人々も投票所に行くはずで、国民の政治行動は俄然、積極性を帯びてくる。

したがって一刻も早く国民投票制を導入すべきなのだが、そのためには二つの理由によって憲法の改正が必要となる。現行憲法では法律の制定や条約の承認などについて、国民の意思を直接的に問う法制度がまったく存在していないから、それを新たに設けなければならない。これが一つ。もう一つは、憲法第41条において「国会は、国権の最高機関であって、国の唯一の立法機関である」と定められているために、国民投票によって法律が作られたり廃止されたりするのは、現行憲法を侵すことになるからだ。
 法は、ほかの誰でもないその法によって自治を行う人々自身が定めるものであって、憲法といえども必要があれば、これをより適切なものに改正することは、国民が持っている当たり前の権利である。だから、スイス、イタリア、フランスといったヨーロッパ諸国のように、日本でも憲法の中に「国民投票」に関する項目を設けるべきだと考える。

戦後の新体制から半世紀が経過し、かつては現実的であったさまざまな機構・制度が急速に合理性を失いつつある。日本は明らかに重大な転機を迎えているのだが、われわれは、これを新しい日本を築くための絶好の機会であるととらえるベきだ。そのためにはまず、「安保」「原発」「天皇制」など長年にわたり暖昧にしてきた問題について、今こそ明快な結論を出さねばならない。といってもこの結論は一部の政治家が出すのではなく、主権者である日本国民一人ひとりが自分で考え、自分で判断し、自分で責任をとらねばならない。その際、人々は個人的な損得にとらわれるのではなく、自国の利害、ひいては地球・人類全体の利害をも考慮して判断を下す人間であることを求められる。それは、ときとして同胞への責任であったり、また他国の人々ヘの責任であったりもするだろう。
 いずれにしても、他者から学び、他者と話し合いながらも、最後は自分で決めて自分で責任をとるという行為は、自由で独立した人間のあるべき姿だと考える。そして、国民投票はその意思表示のための最良の手段となるはずだ。国民投票制の導入は、幼児化した国民を大人にし、日本(人)をより魅力的な国(民)に変容させる大きな可能性をもたらすだろう。