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 小沢一郎 「柔軟な憲法論議と共生の命題」
 シンポジウム「市民が憲法をつくる」(第2回)

小沢一郎(衆議院議員)
(タイトルをクリックするとその項目にジャンプします)
 ・国民の生活を守るための憲法
 ・危機管理と平和を守る条文がない憲法
 ・基本的人権と公共の福祉のバランス
 ・衆参の改革は憲法問題
 ・市民が盛り上げるべき機運
 ・2つ命題と日本の貢献
 ・主権国家論からの脱却
 ・日本人の柔軟さを発揮する



国民の生活を守るための憲法

 まず、憲法というのは何か。国民がよりよい生活を送るための社会のルールであって、法律用語で言えば、そのルールの中でも「最高の規範」です。あるいは、あらゆる具体的な細かいルールの元になる、基本のルールだと思います。

 時間的経過とともに社会が変化した場合、果たしてかつて作ったルールで、当初の目的である国民の幸せな生活を守れるかどうかということで考えるべきです。時代の変遷に伴って今の状況と合わなくなったり、変えた方が国民生活を守るためにいいということであれば、憲法は変えていい。逆に、今まで守ってきた憲法が、世の中の変動に関わらず十分に機能し、国民生活を守れるのであれば、今のままでいい。ですから、最高の法規だから変えてはいけないとか、あるいは状況が変わったから、何が何でも変えなくてはいけないとかいう類のものではないと思います。

 そういう考え方の下で、今日の日本国憲法について申し上げたい。制定から半世紀以上経過した中、当時と今日の社会との間には、地球規模での歴史的な変化が起きています。ですから、半世紀以上前に決めたルールを、時代の変化に適正に機能するために、変えた方がいいところは変えるということでいいのではないでしょうか。

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危機管理と平和を守る条文がない憲法

 ではどういうところを改めた方がいいのか。私たちの憲法に対する考え方を、具体的に法案として示したものが、日本一新11基本法案です。それを見れば、我々の考えが、大体お分かりいただけると思います。まず、いわゆる危機、非常事態に対処するという考え方や仕組みが、日本国憲法には制定当時からありませんでした。したがってそれから派生する具体的な危機管理や非常事態の法や仕組みは、一切存在していないわけです。

 もし今、閣議の最中に、有事や災害が起きて、閣僚が全員死んだとする。だれが国の政治の責任者になるか。国会があれば、新しい総理を選び直すことができます。しかし閉会中だったら、国会を召集する内閣がない。そのときはだれがやるのか。アメリカの場合は大統領が欠けたときには、十何番目か、二十何番目まで決まっていますが、日本にはまったくない。端的な例でしたが、あらゆることについて、日本国憲法はそういう非常時を予想していません。そういう問題点がまずあります。

 それから9条の自衛権、あるいはその行使のための手段としての軍隊についての明確な規定がない。あるいは前文に謳(うた)われる国際協調と平和の理念を守るための逐条の規定がない。そういうことが、未だにいろんな論議の紛争の種になっています。

 武力の行使はいけないという条文は、国連憲章にも同じ文言があります。ただ、国連憲章は、戦争放棄以外にもう一項平和に関する条項を設けており、平和を守るために、平和を乱したものに対する制裁、鎮圧の行為を共同して行うということがきちんと書かれております。これに対して日本国憲法には、明確な逐条の条文がありません。

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基本的人権と公共の福祉のバランス

 基本的人権に関しては、観念的な条文になっており、解釈が明快にできないような条文もある。よく言われるのは、教育や宗教やその他の団体に公金を支出してはいけないというふうに憲法で定めていながら、私学振興法による財政の支援は憲法違反かという議論も、条文と解釈が整合性を持たないところです。

 それから、健康で文化的な生活を送る権利も非常に観念的な文章で、これもよく裁判になります。国は憲法の言う通り、健康で文化的な生活を送る権利を保証していないではないかという類の議論で、最近はあまりないかもしれませんが、かつてはよくありました。

 基本的人権と最も大きな係わりを持つ概念として、公共の福祉という言葉が、ところどころ入っていたり入っていなかったりしており、これも非常に問題だと思います。憲法でかなりあいまいになっていますが、例えば、憲法を受けた民法では、きちんと私権は公共の福祉にしたがうというふうに、第一条で書かれています。ですから、基本的人権の章のすべてにかかる形で、公共の福祉というものをきちんと位置づけないといけない。そうしないと、条文によってあったりなかったり、あるいは公共の福祉とは何ぞやという解釈もあやふやになります。

 基本的人権には個々の問題がいろいろありますが、根本的、本質的な問題としては、この公共の福祉と基本的人権の確保、保証というバランスをどう考えるかが、大問題だと思います。

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衆参の改革は憲法問題

 それから、立法機関等々の衆参の改革については、ほとんど憲法上の問題ですので、憲法を変えないことには、衆参の機能を云々という議論は意味がない。憲法で固定的に、かなりしかも具体的に定められていますから、衆議院と参議院で同じことやっているじゃないかとかなどと言ってみたところで、憲法を変えてその仕組みを変えるという以外に、基本的には直しようがない。

 私は、参議院の機能について、本来の良識の府、あるいは直近の民意を反映すると言われておる衆議院のチェック機関という機能を、憲法できちんと参議院に持たせればいいのではないかと思います。したがって、予算と条約などの例外はありおますが、今日の日本国憲法におけるような同等の権力、あるいは同じような仕組みは必要ないと考えます。

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市民が盛り上げるべき機運

 まだありますが、考えてみますと、やはり問題点はかなりあると思います。ですからそういう意味で、本当に、真面目に、まともに憲法問題を考えるときに来ているのではないかと思います。憲法は絶対変えちゃダメだとか、9条がどうだから変えるべきだとかいう類の短絡的な議論は、国民のために何の利益もない。ですから最初に申し上げた、国民の生活を守っていくために、今日的な社会の中で、最高の法規である憲法は、どういうふうにあったらいいのかということを、謙虚に、素直に考えれば、それほど難しくなく、国民の議論はまとまるのではないかと思います。

 そこに、与野党が政治的にどうだとかという議論や、今までの立場を気にしすぎると、本当の、純粋な、まともな議論ができなくなります。その意味では、むしろ市民のみなさんから、もうちょっと憲法に関心を持っていただいて、ここはちょっと変じゃないかとか、直したほうがいいんじゃないかというような機運が盛り上がってくるというのが、ベストの形ではないでしょうか。そういう意味で、今日のこの調査会のこういった活動も、大変有益なものではないかと思っております。

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2つ命題と日本の貢献

 憲法そのものについての、私の簡単な意見は以上ですが、最後に日本一新の基本法案について触れたいと思います。ちょっと憲法を離れますが、21世紀、新しい世紀になって、世界は、地球は一体どうなっていくのだろうか。その中で日本はどういう役割を果たしながら生存を確保していくのか。

 私は、21世紀は「2つの共生」が人類のテーマだと考えます。1つは「自然との共生」、環境です。もう1つは「人間同士の共生」、平和の問題だと思います。そこで、我々の日本一新11基本法案も、まずは人づくり基本法案という、人間そのもの、日本人そのものの問題を取り上げて、その和の中から安全保障、そして地球環境まで取り上げています。この2つの人類的命題、テーマについて、日本は主導的な役割を果たしていかなければならないし、また、日本と日本人は、人類のために、世界のために、地球のために、大いなる貢献ができる能力、資質を持っていると思います。

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主権国家論からの脱却

 このバックボーンになる思想や哲学として、旧来の主権国家論からの脱却という考え方を持たなくてはいけない。それぞれの国家が旧来的な主権国家論に根差している限り、いろいろな民族、国家を含めた人類の共生は不可能です。安全保障に端的に表れるわけですが、それぞれの国家が自らの主権国家の立場を崩さずに、それを強調していくとすれば、その結論は目に見えております。最近も、こういう立場の中から、日本は自分自身で守らなければならないという議論があります。それはいわば完全に武装独立論になり、結局、現象的には軍拡競争を助長する方向にしかならないわけで、私はそういう考え方はとらない。

 数年前に中国を訪問したときに、人民解放軍の副参謀総長と会いました。ちょうどうそのとき中国は核実験をやっていました。それで彼らは、日本の政治家が平和を言うために来たと思っていたらしく、私に対しても、中国の核武装は自衛の論理だとして、その理論を5つほど挙げました。私が来たのは、核武装について言うために来たのではない。ただ、今あなたの挙げた核武装まで含む自衛のための論理というのは、すべての国に当てはまる。日本にも当てはまる。それで、みんな核武装を含めて軍備を増強したら一体どうなる。私は中国の軍備の増強や核実験を批判しに来たわけではない。ただ、あなたの議論は、大きな声で威張って言うべき意味合いのものではないということだけ申し上げる、ということを言いました。

 主権という言葉を使えばきれいだが、それぞれが自らの利益だけを主張して、自らの生存だけを最優先させれば、世界の平和とは単なる言葉でしかない。したがって、お互いが人類の共生、国家間の共生を最大のテーマにして、その中で日本は大きな役割を果たして行くべきであると考えます。

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日本人の柔軟さを発揮する

 それで日本人というのは、異なった文明、文化に対するそれほどの反発もありません。あるいは宗教的なものもありません。日本人は大体が宗教にいい加減です。悪く言えばそうですが、逆に言うと、そういった宗教や文化、文明の違いに対して、非常に柔軟なんです。悪く言えば、あいまいでいい加減そのものですが、よく言えば、非常に柔軟な思考、発想と、本質的な許容能力を持っている。アメリカや中国、半島から来たものをごちゃまぜにして、自分のものにしてしまうというのが日本人の得意芸です。

 そういう意味において、自然との共生、人類諸国間の共生の哲学を日本が作り上げ、世界に向かって発信できるようになれば、この21世紀も日本や日本人はアズ・ナンバー・ワンになりうると考えます。今のようにいい加減で努力もしないではダメですが、日本人自身がきちんと意識を変えて、自己改革、自己努力を行い、そして自らの役割や責任、使命を自覚して、みんなで力を合わせてその能力を発揮できれば、十分可能ではないかと思います。

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