「憲法 .com」トップページへ
「学習会レポート」へ

「あの人が語る憲法」トップページへ

 武見敬三 「未来志向の民主主義 平和主義とは」  第10回学習会

武見敬三(参議院議員)
(タイトルをクリックするとその項目にジャンプします)
 ・子どもに民主主義を
 ・大統領制を考える
 ・平和主義と安全保障
 ・「人間安全保障」
 ・新たな平和の担い手



子どもに民主主義を

 私は慶応大学法学部政治学科を卒業したが、神谷不二教授に師事し、「台湾問題・分断国家」を研究。父親の関係で「医師」と思われているが正しくは政治学者である。しかし医療問題に関心があり、日本医療新報社に老人保険法改正に関わる政策過程の分析を掲載してきた。他方テレビのニュースキャスターを経て1年間、アメリカ・ハーバード大学の東アジア研究所に入り「日台関係」の論文を書いた。帰国後、自民党から参議院比例区に立候補当選し、たまたま議員になっている。 

 今日は、江田先生のお話に触発されたので、私自身が体験したこと、平素考えていることを述べさせていただきたい。お配りした「人間安全保障」はお読み頂ければお分かりいただけると思います。

 第一は、たとえば、今、「教育基本法」が問題になっているが、私はこれを読んで一つ奇異に感じている。同法の中に「政治教育」という項目があるが、一体、政治教育とは何だろうか、ということである。「公共性を理解しうる教育」を政治教育のように書いてあるが、本当の政治教育とは「民主主義」ではないか、と考えている。

 何故、そう思うかは家族で一年半、アメリカ生活をした時、子ども達を現地の学校に通学させていた。そこで子どもの教育を通して、なるほどと合点がいくことがあった。私には小学校と幼稚園に通う子がいたのであるが、両方とも、同じプログラムで「パプリッシング」という教育に力を入れている。パプリッシングとは「本を出版する教育」であり、そのために、担任の教師が子ども達にいろいろなヒントを与えながら、創造力を働かせて、何をテーマにして出版するかを考えさせる。

 テーマを考え、探させることで他人はさておき、自分自身がどういう考えを持つかという独自性を持たせることを強く教育している。テーマーが決まれば、テーマーに沿ってシナリオを書かせ、それを必ずクラスメートの前で発表させ、質疑させる。この結果、何を教えようとしているかと言えば、「他人の意見を尊重しなさい」と教えている。他人の意見を尊重せしめることを教え込みながら、最終的には先生のアドバイスを受けながら、本を作成し、クラスの中で本を出版するということになる。

 このパプリッシングは、まことに優れた民主主義教育である。子ども達に民主主義が健全に機能するため

1、他人はさておき、自分自身が何を考えるか? まず常に考えさせる

2、自分の独自性を努力しながら他人の意見を常に尊重しなさいという姿勢

3、プログラムを通じて、自分の考えていることを分かり易く、的確に、いかにして他人に伝えるかの技術を教え込む

 これら三つの要素を教えることによる民主主義が建設的に機能することと思います。この三点を子どものときから徹底的に教え込んでいた。

 私は日本でも、このような民主主義教育をしたらいいのにとつくづく思いながら帰国した。日本の教育基本法は基本的に良いことばかりを書いてはいるが、それをキチンと消化して、教育の現場とも通じて、それをしっかりと教え込むことをしていない。戦後、それがなかなか出来なかったのではないか。

このページのトップへ

大統領制を考える

 第二は大統領制導入問題です。私は今、自民党で医療基本問題調査会と厚生労働部会に所属しているが、昨年から今年にかけて、政府の勧奨健康保険の3割負担で相当にもめた。この議論を通じて何を感じたのかというと大統領制導入問題。つまりアメリカの大統領制とは、議会に対しても、かなり大きなトップダウンの政策決定が出来る仕組みになっているのが一つの特徴である。

 我が国でも、橋本内閣の行政改革によって、12省庁に再編され、これを通じて経済財政諮問会議とか、総合規制改革会議とかを内閣府内に事務局を置くことによって、内閣に直接、自分の意見を報告する事が出来る。しかも閣僚も出席し、民間の議員も参画してかなり権威ある諮問機関として、内閣総理大臣にたいして、直接、諮問できる我が国でも珍しいトップダウンでの政策を策定できる新しい仕組みが出来上がった。

 3割負担とどういう関係にあるか?といえば、実は、従来、わが与党内で常に政党主義者というものが絶対的な役割を果たしており、この医療基本問題調査会とか厚生労働部会にたいして影響力を発揮する。いわゆる「族議員」の利害損得と随分重なり合いながら、また医療関係団体その他と緊密な議論をしながら、意見調整をして、ボトムアップで政策策定し、自民党総務会で決定されると内閣での閣議決定。法案となる場合には閣案として出てくる構造になっている。これは従来のボトムアップの政策決定であった。

 これに対して、経済財政諮問会議や総合規制改革会議はトップダウンの政策決定が対峙する形で小泉内閣になって明確に現れてくる。そしてボトムアップとトップダウンの政策決定の対峙する構図のなかで、まさに対立の象徴的な存在に政府の勧奨保険の3割負担がなってくる。これは次年度の支払い能力がなくなることによる政府勧奨保険の財政をどのように確保するのか、が大きなテーマである。

 面白いことにボトムアップでいろんな関係団体と意見調整していくと政府勧奨保険は公的医療機関であるから、できるかぎり財源についても幅広く国民に負担を共有してもらい、財政を確保しょうという考え方でやろうというコンセンサスが出来上がるわけである。そうすると、もっと幅広く国民に負担してもらう方式は、たとえば、一般消費税の引き上げということになるわけである。しかし一般消費が冷え込む中で、景気回復する場合に消費をさらに冷え込ませるような国民負担をさせることはできない。それはすぐ合意できる。そうなると、政府勧奨保険に加入している被保険者本人から保険料を引き上げることによって財源の確保と安定を図ろうということになった。ボトムアップで政策決定していくと、結果としては保険料の引き上げを通じて財源を確保することを当面の財源確保とし、被保険者本人の負担についてはできるかぎり将来、必要と見なされたときのみ検討しようということになるのである。

 トップダウンというのは、財務省とか財界関係者や近代経済学者が中心である。この人たちは国庫負担をなるべく少なくしたい、社会保障を自助自立というより個人主義的価値観にもとずいて持続可能な形で再構成していきたいと思っている。こうした人たちは出来る限り、受益者負担という観点から患者本人の負担を引き上げて、国民健康保険や組合健保とか3割負担で同じくする、という考え方で整理されてしまう。保険料引き上げとともに患者負担で財源確保をしよう、という考え方で個人主義的な自助自立という考え方の中で形成され答申されてくる。つまりトップダウンは、より個人主義的価値観にもとづく政策が決定されることが強くなる。ボトムアップは、より集団主義的価値観に重きをおいた形で政策が策定されてくる、という特徴がある。

 そいう特徴が与党と政府の間においてもさえはっきりと出てきた。結果として、3割負担はトップダウンに押し切られてしまった。実際、このパターンは恐らく、いろいろな形で今後、日本の政治のなかで現れてくるであろう。その中で、大統領制の問題も含めて、トップダウンで政策策定をしていけばどういう政策的特徴をつくっていくのか、そのことをよく考えていかないと、さまざまな日本の集団主義的価値観と相克し、政策的にいろいろな問題点をつくり出してくるでろう。

 今後、恐らく、具体的な政策についてトップダウン、ボトムアップの議論をしていく過程で、結果的に、我が国は10年位、経つとどのぐらい個人主義的価値観にもとづく社会になるか、それとも集団主義的価値観にもとづいた社会になるかが決まってくると思う。個別の政策策定の過程でいろいろ価値観はつばぜり合いが行われる結果として、新しい日本の21世紀の基本的な考え方の価値観が構築されていくのではないかと思う。トップダウンとボトムアップとの関係性の中で大統領制を論ずるのは必要性があると思う。

このページのトップへ

平和主義と安全保障

 憲法調査会はこれから「平和主義と安全保障」をテーマに議論することになっている。我が国の平和主義とは一体何なのか? 我が国で考える安全保障とは一体何なのか?極めて具体的に議論していくことが求められるであろう。

 私は先ず「憲法ありき」という考え方はしない。今、直面している国際社会は一体、どういう状況にあるのか? 我が国が近隣諸国を含め直面している安全保障上の課題は一体何か?をきちんと整理して、どのような安全保障の概念で政策を整理し、そのあるべき政策を考えたときに、我が国の憲法の第9条がどのように融合するのか? あるいは矛盾を作り出すのか? こいう議論の中で私自身は考えていきたい。

 第一に申し上げておきたいことは、日本国および国民は今、21世紀初頭において、極めて難しい矛盾したさまざまな状況にいっぺんに直面していると言うことである。日本がもしヨーロッパのどこかに位置し、またはNATOの一つの国というのであれば、もっと議論は分かり易く単純に出来る。しかし、我が国は北東アジアに位置し、周辺には台湾海峡での「分断国家」が残存し、その台湾海峡の両岸は短距離ミサイルを含め軍事力の増強が双方によって着実に行われている。軍事の均衡は低いポイントで均衡していくより、より高いポイントで均衡し、絶えず緊張を孕んでいる。

 他方、南北朝鮮では38度線を境にして、極めて破壊力の大きな近代化された兵力で対峙し、その数約120万人である。それぞれに破壊力の大きな近代化された戦力が、近隣諸国に影響を及ぼしている。しかも北朝鮮の政治体制の中で核開発が始まり、核兵器を生産することも可能な条件が着実に進展している。

 欧州ではドイツの統合によって、冷戦構造が終結し、分断国家はなくなったとはいえ、ポストアジアという地域ではいまだ分断国家という冷戦構造が厳然と残っている。そのことが常に緊張関係をつくりだすという近隣諸国の国家間関係の中に、我が国は置かれている。その状況に常に対峙しつつ、我が国の安全をどう実現するか?国家安全保障の観点からの政策がどうしても必要だというのが第一点。

このページのトップへ

「人間安全保障」

 第二点は20世紀半ばから21世紀にかけて、人類社会の進歩として、人、物、情報が国境を越えて急速に拡大、交流する時代状況になってきた。これによって、国際経済がよりダイナミックに改めて発展する素地を残したということはポリテイムな面である。しかし他方、グローバリゼーションという中にさまざまなネガティブなアクティブというものが存在していることが1900年代に入り除除に認識されるようになった。

 それは人の移動を通じて、改めて、従来と異なるさまざまな脅威が軍事的、暴力的、非暴力的脅威として国際社会の中に出現してきた。たとえば、サーズやエイズなどのような新興感染症である。これらは国境を越えて多くの人々が深刻な脅威にさらされる。それによって実際、日常生活が深刻に脅かされる。さらには麻薬、組織犯罪、テロリズムもそれぞれ国境を越えて、グーロバリゼーションの結果、その脅威の質を高める傾向が着実に出てきている。

 したがって1994年、「国連開発計画」(UNP)が報告書「ヒューマンドキュメント」の中で「ヒューマンセキュリティ」=「人間安全保障」の考え方を提唱しはじめたわけだが、その時、すでにテロリズムを改めて、グローバリゼーションの中でより深刻な脅威となることを予測し、分析している。それはまさに「9・11同時多発テロ」を通じて、想像以上の破壊力が実際に起り、現実のものとなり、これが改めて、国際社会の中で共通の脅威として、国際社会全体が連帯して取り組まなくてはならない形で出現してきている。

 環境問題も然りである。他にもいろいろあるが、要はどういう事かと言えば、グローバリぜーションの結果として、出現したネガティブ・アクティブというのは従来の国家単位の脅威とは違って従来、想定していた軍事的脅威とも違って、暴力的、非暴力的脅威の主体が国家ではない。同時に、感染症や環境問題など、非軍事的な脅威も着実に増えてきている。

 新たな脅威を考えた場合、それは単に、それぞれの国が軍事力を増強して自国の防衛を強化しようとしても、決して効果的な措置とならず、新たな脅威を抑止し解消する効果を持ち得ないという新たなタイプの脅威が国際社会で着実に増えてきている。こういう脅威に対して、どのように対処すればよいのか? もはや国民をまとめる政府や国家の次元だけでは解決出来ない。明らかに国連や国際組織関係、NGOなどが共に共通の問題意識を持って連携し合うことによって、はじめて、新たな脅威に対処できることが可能な新たなタイプの形が出来上がってきている。

 こうした考え方を整理した概念として「人間安全保障」という概念に使われるようになった。それがさまざまに議論された結果、我が国でも外交政策や経済協力を策定するときの一つの大きな基本概念として活用されるようになってきた、ということがあると思う。

 その中ではやはり、国境を越えて、個々の人間がそれぞれ自らが持つポテンシャリティ=潜在性というものをできるかぎり活用し、より有意義な人生を営むことができるように、常に考えることを基本にするのが「人間安全保障」の基本概念である。それを科学的に裏付ける理論的な構築はアジアではじめてノーベル賞を受賞したアマルティア・セン氏(経済学者)で、従来のケネー達の経済学者とは全く違った新しい理論経済学。これを大きな背景にしながら、人間を対象として、コミュニティという一つの単位として、新しい脅威に対処するための新しい国際ネットワークづくりがいまよやく具体的に始まろうとしている。

 我が国でも、共通の意識を持っていて、たとえば、国連のコヒアナ事務総長らと連携して「人間の安全保障委員会」を設立せしめ、議長団にはアマルティア・セン氏や緒方貞子氏らが共同議長となり、委員には南アフリカのジーマンさんや南米の人権活動家ら多くの人達が参加し活動している。過去5回、会合を重ね、今年2月に最終報告書をとりまとめた。あと2週間ぐらいで、日本語版が出版されると思う。いかにして、我が国の政府や国民が具体的な政策として、官・民一体となって、これを実行するかが問われている。私自身は平和主義を考えるときに、個々の人間の潜在力を的確に引き出し、よりよい有意義な人生を営むことを常にお互いに支援し合うことの考え方、一つの平和主義の原点となると思っている

 したがって我が国内で、未来志向の平和主義を確立するときに、人間を中心にした新しい価値観を一つの基本に置きながら国際社会の責任感を取りうる強靱な「人間安全保障」の観点から再構築できないかと思っている。

このページのトップへ

新たな平和の担い手

 実際に手応えは相当ある。とくに30歳代後半の人々にはすんなりこの考え方を理解してもらえている。1970年代後半に生まれ育った人達は、1980年半ばから人生の中の正確な記憶が蓄積されてくる。この頃は我が国では、殆どの家庭で生活水準が高くなっていて生活必需品も質の高い、欧米諸国にも劣らない生活水準になってきている。そのような生活環境のなかで育ちはじめて人生の記憶が正確に蓄積されてきたのが30歳代の人達だ。

 これら若い人達は、「古い人」と比較すると明らかに大きな違いがあり、古い人の価値観は近代化の残滓に毒されており、まだまだ物理的な価値基準で「欧米諸国に追いつき追い越せ」の意識を持っている。若い世代の人達は豊かな社会の中で記憶が蓄積され、物理的なものより「自由」を求め、海外旅行もどんどん行くし、欧米コンプレックスもなくなってきている。同時にアジアに対する優越意識も本当にない。社会像が変わってきているのである。自然と自分の感性でアジアの音楽や映画を受け入れる傾向が出てきている。そのことが我が国ではっきりしてきた。

 こうした若い人達がNGOに参加したり組織を作ったりしており、その意識がはっきり社会に現れたのが「阪神大震災」のようなボランティア活動あった。これら若い人達は単なる豊かさだけでは満足していない。豊かさに変わる自分自身が納得する意義委ある生き方をしたいということを潜在的に持っている。ボランティアを取り組むことによって人生の意義を感じるようになってきている。このことから私は着実に、具体的に、新しい平和主義の担い手が日本社会の中に広がってきている手応えを感じている。こいう人達に「人間安全保障」の考え方を理論的にしっかり理解してもらい、未来志向の平和主義の新しい基盤がつくられていくのではないだろうか。

 「国際貢献」とか「安保理の理事国にしてくれ」との意見をいう人は沢山いる。しかし、その時には、常に普遍的な価値観を持って、それにもとづき、いかに国際社会に貢献しようとしているかを具体的に説明できずに、声高に「国際貢献」「国際貢献」と言っても説得力がない。我が国としては、そのことをきちんと理論化し、かつ国民にもきちんと理解していただき、日本という国、社会が国際社会に役立つことが21世紀の前半における大きな課題であろう。たまたま、私が参議院議員となった国際政治学者として、以上のことを考えていると言うことである。

このページのトップへ