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 寺島実郎 「転換期における問題意識」  第7回学習会

寺島実郎(三井物産戦略研究所所長)
(タイトルをクリックするとその項目にジャンプします)
 [1]「茹でガエル」現象とその背後
 [2]IT革命で崩れる連帯の機軸
 [3]アメリカのマネーゲームに飲み込まれた10年
 [4]対米配慮と中国台頭に揺さぶられる憲法
 [5]日本を呪縛するアングロサクソン同盟
 [6]国家の要件としての常識
 [7]イラク攻撃に見る戦争への心理



[1]「茹でガエル」現象とその背後

複雑な閉塞感

 時代の空気として、ある種の閉塞感、漠然とした総保守化のような、なんとなく重苦しい空気が漂っています。世界の空気は、何やら戦争の議論が前提になったような雰囲気にあります。日本の国内も、改革という言葉が乱れ飛んでいますが、本当の意味での変革に対する意欲がどこかに消え去ってしまっているような、非常に複雑な閉塞感の中にあるという気がします。どうしてそういうことになっているのか、僕なりの考え方を話しておきたいと思います。それは、変革という言葉を疑問視する人間にとってみると、どうしても踏まえておかなければいけないポイントだからと思うからです。日本の国内における閉塞感の本質的なところに横たわっているものを申し上げたい。



デフレ経済と「茹でガエル」現象

 「失われた10年」から見えてくるものは何か。一言で言うと「茹でガエル現象」です。最近、海外を動き回っていると、「日本のサラリーマンとか市民はなぜ怒らないんだ」という質問をよく受けます。株が1989年の12月末から8割落ちている。日本の経済が世界で占める地位が、10年前に比べて信じられない程縮みこんだということを、いろんな意味で体験します。にも関わらず、日本のサラリーマンはヘラヘラと笑って怒ろうとしない。あらゆることに、「なぜなんだ」という質問を受けます。問題意識が拡散しているのではないか。茹でガエル現象とは虚偽意識です。カエルが五右衛門風呂に落ちて、下からお湯が炊かれてぐらぐら煮えてきてるけど、臨界点に達するまではお湯も悪くないかみたいな気分で、ヘラヘラしている。臨界点に達したら死んじゃうのか飛び出すのかわかりませんが、なにやら不思議な閉塞感と言いますか、虚偽意識の中にあるというのが茹でガエル現象です。

 茹でガエル現象がなぜ起こってるのか。現金給与総額を見ると、一定の組織にしがみついていられるサラリーマンの平均年収が前提となっていますが、フローの一定の所得のある大部分の都市のサラリーマンは、この5年間、97年以降は収入が減り始めています。総人件費カットとか年功序列終身雇用体型の見直しだとか、ものすごく厳しくなっています。だけど10年前に比べたら、サラリーマンの年収はざっくり切ると10.0%増えています。一方、消費者物価指数は、やはり98年から下がり始めていますが、この10年をざっくり切ると6.5%アップです。このからくりなんですね。つまり、この5年くらいは物価も下がり、給料も下がっているけれども、10年前に比べると、10.0%給料が増えて、物価も6.5%上がっている。お金の使い勝手が相対的によくなっているということです。衣食住すべてです。

 デフレ経済のソフトランディングということが起こっている。マンション家賃も下がっている。食も二極分化が起こって、高級レストラン志向もないとは言えないが、59円ハンバーガーの選択肢も広がっています。着るものでも、ユニクロ現象という言葉があったように、安く済ませようとすれば安く済ませられるという選択肢が広がった。最近ではさらに、ユニクロでも買わない。着まわし現象ということで、要するにタンス開ければ着るものがいっぱいあるから、何も買わないで生きようという精神構造に、次第にソフトランディングしていく。

 したがって、そのプロセスの中で、怒りが拡散している。本当だったら、ほかの国なら暴動起こっているかもしれない。デモの一つでも盛り上がっているかもしれない。政権の一つや二つ、経済政策で吹っ飛んでいるかもしれないという状況下にあるにも関わらず、日本のサラリーマンはヘラヘラとしているという構造が見えてきます。



虚偽意識の裏にある社会の荒廃

 今の話はあくまでも、組織に帰属していて一定の収入が確保されてる人を前提にしているわけです。一旦中高年で失業したら、第2の就職先で給料は必ず4割か3割は減ると出てきています。この国では、社会の底辺でこうしたものすごいことが進行している。だから、茹でガエル現象が虚偽意識だと言うのです。失業者は過去10年間で、実数で210万人増えてることになっていますが、実際は370万人にもなっていますから、尋常ならざる数字です。

 個人破産の件数は10年前1万1000件だったのが16万件になり、去年は限りなく20万件に近付いたと言われています。要するに、個人破産20万の国になってしまった。そこでまたとてつもない目くらましが起こっていて、何かと言うと、サラ金地獄です。余談ですが、日本のメディアもものすごく問題がある。昨年からTBSがゴールデンアワーにサラ金のCMを打つことを許容したという瞬間に、テレビ文化が少し変わりました。そのことによって、広告代理店のものすごいあざとい宣伝が、ゴールデンアワーに刷り込まれています。一番典型的なのは、お父さんと娘が、チワワがじっと見つめてるというので、サラ金で金借りてでも犬を飼おうという雰囲気がにじみ出たCMがあります。今、子どもが生まれて最初に覚える歌は「初めてのアコム」だと言われています。刷り込みでリズム感がいいから覚えてしまう。ニコニコ顔のお姉さんが、いつでもお貸ししますよ、いつ踏み倒してもいいですよと言わんばかりの宣伝が刷り込まれている中で、気がつけば個人破産20万件の国になっていたということです。

 昔、先憂後楽という言葉がありまして、後楽園の地名の元にもなっていますが、最初に苦しみを味わって将来楽しく行こうじゃないかという考え方ですが、今の日本人は完全に“先楽園”になっています。そういうカルチャーの中で、前倒しで金借りてでも楽しもうという、ある種のゲームの中に吸い込まれていくうちに個人破産20万件の国になったということです。

 刑法犯の認知件数というのはこの10年間で1年間の発生率100万件増えました。なぜこんなに増えたのか。不法滞在の外国人による組織犯罪だとかいろんなことを言われていますが、この国はバブル以降の10年間で様変わりしまし。自殺者は2001年3万1000人。1990年は2万1000人でしたから自殺する人が1万人増えた。昨年はさらに3万3000人に近付いたと言われています。交通事故死が9000人を大きく割っている国で、自殺者が3万何千人というところまで来てしまったことの重み。分かりやすく言うと、茹でガエル現象の背後に、この国の社会の底辺というのがものすごい荒廃が進んでいるということです。

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[2]IT革命で崩れる連帯の機軸

革新の機軸の崩壊

 そういう虚偽意識の蔓延の中で、怒りだとか、鋭く問題を捉えて戦う、抗議するだとかという意思を失い始めているのか。私は中坊さんなんかと、連合の運営評価委員をやっていて、ため息が出るんですけれども、労働組合の組織率は2割を割ろうとしています。かつてピーク時は5割でした。冷戦後の大きな変化で、55年体制だとか保革対立だとか言ってた時代はまさに夢のまた夢です。かつて革新という側に立って発言をする人の三大話というのは、「護憲・反安保・社会主義」でしたが、それぞれが非常に空洞化しました。冷戦が崩壊して、社会主義の総本山といわれたソ連邦及び東側が崩れていった中で、社会主義というキーワードそのものが、価値を持った言葉として輝かなくなった。反安保も、社会党が政権に参加して安保を許容して争点にもならなくなった。憲法も、長い間自民党さえ正面に持ち出さなかったこともあって、いつの間にか論点として空白化してきた。要するに冷戦後のイデオロギーの終焉で、保革対立のメルクマールそのものが融解してどろどろに溶けていった。明確に何かの機軸で政策の選択肢ができあがる状況ではなくなった。何が変革の思想の機軸なのか。小泉構造改革のポイントでもある米国流の競争主義、市場主義を徹底させていくことが、この国を変革する論理だということに、いつの間にか拍手を送ってしまっている。虚偽意識のねじれです。



働く現場から消える年功と熟練

 さらにもう一つ複雑な要素として、IT革命のインパクトで働く現場がものすごく変わってきています。労働組合がなぜ空洞化しているかという分析でも分かりますが、今まではその職場に長く定着して年功とか熟練を積み上げていくことが、企業にとっても、その人の人生にとっても価値だった。何も右肩上がりで年功序列、終身雇用制が許されていたというだけではなく、仕事の中身そのものがそういうものでした。年功を積むに連れて熟練度が高まって、それが評価を受けるというタイプの仕事だったんです。

 ところが今、IT革命によって、年功とか熟練が価値ではないということになってきました。例えば製造業の行程の中で、最も熟練を要する一つのイメージとして金型の設計があります。20年の熟練工という、いぶし銀のような中間職が会社を支えている。その人は大変に尊敬されているし、評価もされているイメージがありました。しかし残念ながら今は、コンピュータ工学でCAD/CAMを身につけてきた人が、入社して3ヶ月や6ヶ月で、20年の熟練工の設計技術に瞬く間にキャッチアップしていく時代ができ上がっています。流通もそうです。バーコードシステムのように、フリーターの仕事の源泉になっているわけですが、要するに「フール・プルーフ」というものです。ITを使ってだれがやっても同じという仕事に平準化していく。熟練も何もありません。ひょっとしたら文字も読めないかもしれないけれども、バーコードをなぞることくらいできるでしょということです。流通の川下で、スーパーマーケットでもコンビニエンスストアでも、レジが維持できるという仕組みに近付くにつれて、余人をもって変えがたい仕事が、世の中からどんどん低下していく。

 労働組合のパラドックスでワークシェアリングとかアウトソーシングという議論が出ていますが、変な言い方をすると、アウトソーシングできるほど仕事の中身が平準化してきているということでもあり、ワークシェアリングできるほどだれがやっても同じという意味でもあります。余人をもって変えがたい付加価値の高い仕事なら、金払って次の人どうぞなんてできやしません。ところ今、ITを使って仕事の中身を変えていく。金融の世界でも流通の世界でも変わってきてます。



沈下する「連帯」

 今、非常に注目しているのは、数年前に出てきた、MITが開発している「オートIDセンター」という構想で、バーコードなんて過去の夢みたいになってしまいます。すべての商品に部品まで含めICチップが埋め込まれて、流通過程を通過して行くだけで、素材からリサイクルの状態までが管理できるような仕組みが、動き始めています。

 そんなものが出てくると、中間管理職が持つ意味が、各企業においてもまるで変わってしまいます。というのは、中間管理職とは分かりやすく言うと、情報の結節点として飯を食っていた。若い人に現場を走らせて、集まった情報を束ねて、それに付加価値と称するレポートを1枚つけて、幹部に届けて、現場こう動いていますということで飯を食えた。ところが、そういう人がいらなくなってきています。なぜならば、僕がものすごい戦略企画力を持っている経営者だったら、自分の問題意識をシステム管理者に伝えます。自分が毎日会社出てきたら、いの一番に現場がどう動いているのかという情報が瞬時にアウトプットされるようなシステムを設計してくれと。そんな話は珍しいことでもなんでもない。変なオヤジが中間管理職で変なコメントつけるよりも、よっぽど自分の戦略意思で問題が組み立てられるわけです。

 今話しているのは、労働環境のアンバンドリングです。これまでは、長い間同じ職場にいる中から連帯して、一つのテーマを設定していましたが、今はフリーター人口が400万というように、組織に帰属せずに時間を切り売りして生活の糧を稼ぎ、あとは拘束されたくないというアンバンドリングが、連帯の機軸をバラバラにしている状況です。ようやく連合も、フリーターやパートの人を組織化して、力にしていこうと考えていますが、これまた現場ではものすごいバッティングが起こっています。中坊さんとヒアリングをすると、フリーターとかパートタイマーの人とたちは、自分たちにとって最大の敵は経営者でも何でもないと言います。組織された正規の労働者の方がよっぽど敵だと。彼らが給料を増やそうとしても、正規の労働者にしてみれば、自分たちとバッティングするという意識があるから、彼らを押さえ込む側に回る。

 そういうことで、既存の組織としての労働組合は時代の役割を失って、次第に沈下していっています。労働組合で旗立てて集まりましょうなんて言っても、どこの企業も、組織の半分くらいは社外から嘱託で来てる人たちとかアウトソーシングしている人が座っているから、職場集会もままならない環境になり、職場での結節点の崩壊が起こっている。連帯なんてかっこよく言葉では言っても、連帯していく機軸も組織論的基盤もない。束ねるイデオロギーも融解している。

 そこで、とりあえず茹でガエル状態になっている。右肩上がりではないということは分かっているけれども、デフレ経済にソフトランディングしていく中で、茫漠(ぼうばく)たる不安感にたちながら、変革の意思を見失い始めている。すごく難しい時代の空気です。それこそ「万国の労働者よ団結せよ」という言葉で、目が覚めたように輝くという時代ではなくなっています。では、どういう価値機軸で連帯していくのか。20世紀は「階級共同体」の変革論とが一つ輝き持っていた。21世紀は、多分、共同体の連携の仕組みを構想した人間が、新しい時代の変革論を組み立てるんだろうと思っています。ネット共同体のような、いわゆる情報ネットワーク。ITのネットワーク基盤というのは、プラスにもマイナスにも働く潜在的なポテンシャルを持っているわけですが、新しい時代に向けて、これを連携のツールとして作り上げる努力が、新しい組織論、変革論を構築していくのではないのかと、最近は考え始めています。

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[3]アメリカのマネーゲームに飲み込まれた10年

アメリカ主導のマネーゲーム

 次に申し上げたいことは、失われた10年の背後に横たわっている国際関係です。日本とアメリカの国際収支の構造から、我々は今何にはまって金縛りになっているのかという話をします。アメリカは、過去10年間で累積1兆9000億ドルの経常収支の赤字を積み上げました。つまり借金大国だったんですね。約2兆ドル近い借金を積み上げた。一方で、それを補って余りあるお金が海外からアメリカに吸い上げられる構造になった10年でした。アメリカの海外純資産の過去10年間の推移はどうか。もともとマイナスポジションだったとは言え、この10年間で、アメリカは海外純資産を約2兆ドル減らしました。一方日本はこの10年間、モノ作りの人たちが頑張って、貿易収支の黒字を積み上げ、それが反映して、約1兆ドルの経常収支の黒字を積み上げました。海外純資産を約1兆ドル増やしました。

 そこで素朴な疑問にたどり着きます。失われた10年の裏側にある国際関係の中で、どういう時代を生きてきたのか。なぜ借金2兆ドルも増やして、海外資産を2兆ドルも減らしたような国が悠々としていて、なぜ1兆ドルも資産を増やして、黒字を積み上げた国が失われた10年だの、茹でガエルだのでのたうちまわっているのか。何か変じゃないか。

 「マネー敗戦」という議論に、当然気がつくはずです。この構図の背景にあるものは一体何なのか。この10年間、我々はどういうゲームに巻き込まれてきたのか。アメリカを発信源とするグローバリズムという潮流の中を生きているという認識でこの10年走ってきた。この10年間論壇で発言した多くの人たちの言ったことをつなぎあわせてみると、一時の大前健一、堺屋太一、竹中平蔵、中谷巌といった一連のエコノミストにしても、大競争の時代だとか競争主義、市場主義の時代とか、いろいろな言葉を使っていました。大体この10年間の我々の時代認識というのは、単純に凝縮していくとIT×グローバル化です。要するにIT革命という途方もない時代潮流の中に立ってるという認識です。それから世界は国境を越えてヒト、モノ、カネ、技術、情報が自由に行き交う時代に向けて走っていると言うんですね。それが冷戦後の世界のゲームのルールだと言う。かつて東側と言われた国が全部市場経済に参入してきたという時代認識をしていた。つまり、IT×グローバル化=新資本主義という方程式になる。我々は新資本主義の時代を生きてるんだという認識でこの10年やってきた。

 しかし、IT革命とは何だったか。分かりやすく言うと、アメリカが主導した軍事技術のパラダイム転換です。インターネットがIT革命のキーワードだったわけですが、インターネットというのは、ペンタゴンのコンピュータシステムの軍民転換、軍事技術の民生転換だった。90年代に入ってARPAネットワークの技術が民生用に開放されて、商業ネットワークとリンクして、ネットワーク技術革命の大きな潮流が形成された。つまり、アメリカが主導した軍事技術のパラダイム転換を、我々はIT革命だと言って受け止めていたんです。グローバリゼーションというのも、これまたアメリカが主導した、一種の新しい経済潮流です。別な言い方をすると、グローバリズムという名前のマネーゲームの潮流で、アメリカは1兆9000億ドルの赤字を補って余りあるカを吸い込んでった。そのアメリカが発信したメッセージが、グローバリゼーションの時代だということです。金利のメリットだとか、ドルの一極支配としての唯一の基軸通貨としての相対的信頼度だとかという意味で、アメリカのお金を持つ方が相対的に有利になってくる。



軍民転換で肥大化した金融ビジネス

 それから、そのアメリカのビジネスモデルの魅力です。ITがまさに大きなインターネットバブルになって、お金を引きつけていった。いずれにせよ、さまざまな要因を積み上げながらアメリカにお金が回る仕組みをエンジニアリングしていった。それがグローバリズムの一つの本質だったと思います。そういうゲームの中にこの10年間、日本はさらされてきた。87年から97年までニューヨークとワシントンで仕事をしてきて、日米財界人会議でアメリカサイドと12年間付き合ってきましたが、94、5年ごろから流れが変わったなと直感し始めました。それまでは、日米関係におけるテーマって言うのは、貿易摩擦だとか自動車摩擦だとかという世界だったけれど、94、5年ごろから、日本の不良債権問題だとか、金融の話題ばかりになり始めた。なぜか。アメリカの産業の基本性格が変わったからです。

 どう変わったか。90年代に入るまでは、アメリカの産業は産軍複合体という言葉で表現できた。つまり、過去50年間、アメリカは、20兆ドルの軍事予算積み上げて、その裾野に巨大な産業を作ってきた。宇宙航空産業はそのシンボルマークだった。ところが、クリントン政権になって、軍事予算を3割カットした。財政は黒字化したが、軍事産業が成り立たなくなった。そこで軍民転換という、ディフェンスコンバージョンの流れが起こって、そこにIT、インターネットの民生転換みたいな話が、大きな状況になって登場してきた背景がある。

 この数字がすべてを示していますが、アメリカの理工科系の大学の卒業者の8割が、冷戦の時代には軍事産業に雇われていた。それが、冷戦が終わって10年で、軍事産業は合従連衡の嵐に入ったわけです。予算が3分の1もカットされたからです。マクダネル・ダグラスがボーイングに吸収合併された。ロッキードとマーチン・マリエッタが合併した。グラマンがノースロップに吸収された。TRWもノースロップに吸収された。日本の銀行に合従連衡の嵐が走って日本人はぎょっとなっているけれども、それどころじゃない。アメリカの虎の子産業である軍事産業に、合従連衡の嵐が走った10年です。

 では、理工科系の卒業生の8割を吸収していた軍事産業がリストラの嵐に入って、若い優秀な、ITで武装した理工科系の学生達はどこに雇われていったのか。これにじっと注目すれば、アメリカの産業の基本性格の変化が分かります。それが金融、直接金融です。10年前に、アメリカ経済に明るい人がこういう種類の勉強会に出ても、401Kなんて言葉の意味が分かる人はほとんどいなかった。年金でさえ株式市場で運用するような金融ビジネスモデルがものすごい勢いで肥大化した。デリバティブヘッジファンドの世界ですね。10年前にデリバティブヘッジファンドなんて言葉の意味が分かっている人なんてほとんどいなかった。要するにITで武装した金融なんですね。理工科系の優秀な卒業生が金融の世界に入って、ITを使って金融の世界で何ができるかというノリの中で、新しい金融ビジネスモデルがものすごい勢いで出始めた。

 そのシンボルマークがデリバティブで、行き着いた先がエンロンの崩壊です。エンロンは、たった17年間の命しかない会社だったけれども、もともとはテキサスのガスパイプラインの運行会社でした。実業の会社だったんです。ところが固定資産を持つ経営をやっても始まらないということで、もともとは発電所も送電線も持っていた会社だったのが、電力デリバティブを切り拓いた。我々の産業や生活の基本財である電力まで、マネーゲームの対象にし始めた。電力が投機の対象としてのビジネスモデルに出始めて、実需としての電力と、マネーゲームとしての電力の間に大きなギャップが生じ始めた。それで、行き着いた先がカリフォルニアの停電であり、エンロンそのものの崩壊だった。ブラックジャックみたいな話ですが、要するにエンロンの崩壊が象徴してるのは、それほどまでにマネーゲーム化した、新しいビジネスモデルと称する金融ビジネスモデルを、ものすごく肥大化した経済を、アメリカはこの10年間で作り出したということです。



日本がはまった自虐のメカニズム

 その潮流の中に、我々はたっぷりと巻き込まれて、国際収支の構造の中に自分たちを置いて、じっと手を見るみたいな状況になっている。しかも、不良債権の償却なくして、日本の再生はなしっていう論理に、一生懸命血道をあげてるわけです。不良債権の処理は大切じゃないなんて話をしているわけではないです。バランスのとれた産業間の中で、不良債権の償却を議論しないで、自己目的化したマネーゲームやデフレスパイラルの中で不良債権の償却に血道をあげると、何が起こるか。まさに今、日本はそこにまっているわけです。

 「自分の足をピストルで撃つ」という表現がありますが、成長のプラットホームを実現していく中で問題解決を進めず、デフレスパイラルの中でやったら、株はますます下がって、新たな不良債権にならなくていいものまでなってしまう。この国は、過去10年間で90兆円の不良債権を償却しました。だけど、また新たな不良債権がわき出てくるという、自虐のメカニズムにたっぷりはまって、しかも、「不良債権は蜜の味」という人たちに、よってたかって食い物にされているという構図になっているわけです。そんなことにさえ気づかない。

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[4]対米配慮と中国台頭に揺さぶられる憲法

解釈改憲のモチーフは「対米配慮」

 そこで、固定観念としての、トラウマとしてのアメリカという話をしっかりしたい。一番の問題意識はそこです。田原総一郎さんに「寺島さん、10年以上もアメリカで飯食って、やけにアメリカに厳しいこと言うね」とからかわれましたけれども、何も反米でも嫌米でもない。アメリカという国の社会が持っている、柔らかさとか生活しての魅力はだれよりも分かっている。しかし、アメリカという国は、抑圧的寛容という言葉が当てはまる国です。相手が弱っているとき、たとえば敗北した日本にやってきたGHQのような、自分が強いポジションで、相手がへこたれてるときは滅法寛大で優しい存在です。ところが、相手が一定の存在感を持ってきたり、対抗してきたり、自らを超えていくかもしれないという瞬間に、異様な嫉妬心と猜疑心の塊を燃えたぎらせるような部分があります。それが抑圧的寛容です。アメリカのコミュニティで生活すると、優しい心の広い、思いやりのある人たちが生活しているんだなって感動するシーンは、10年以上住んでいていくらでも思い出します。だけど、国家としてのアメリカが、一旦我々の前に登場してくるや、相当考えておかなくてはいけません。

 この国が戦後スタートして、ああいう形の憲法を作って、現実的には解釈改憲を積み上げてきている。自衛隊を作ったときも、実質的海外派兵を実現してしまったときも、ガイドラインの見直しにしても、テロ特措法を作ってアフガン攻撃を準備していたときも実質的に解釈改憲を積み上げています。では、解釈改憲のモチーフは何か。何のために解釈改憲でねじれた憲法論を展開してきたか。極めて明快です。すべてを貫いているのは「米国の都合」です。米国の期待に合わせて、解釈改憲が出てきている。一言で言えば「対米配慮」です。対米配慮が解釈改憲の意図です。



靖国参拝と対米配慮のロジック

 小泉さんが一昨年から、やたらに元気に靖国にお参りに行く。8月15日に絶対に行くんだと言って、ついに13日に行った。そこで、8月15日に絶対に行くんだと言っていたときに、ブッシュ政権の対日スタッフの人たちは殺気立ちました。いよいよ本格的なナショナリストが首相になって登場してきたかという意味で。A級戦犯が合祀されていようがなかろうが、靖国に絶対行くんだという論理、ロジカルコンシステンシーを積み上げて行けば、どこにたどり着くか。1951年のサンフランシスコ講和条約で日本がコミットしたはずの、いわゆる極東軍事裁判を正面切って否定してくるのではないか。東条英機だって立派な人だったということを言い始めるのではないか。そうしたときに、日米関係をどういう方向に持ってたらいいんだ。そういうことを、シミュレーションし始めていました。

 ところが腰砕けとはまさにこのことで、がっくりするようなことが、その翌月すでに起こりました。9月に小泉さんは日帰りで中国に行って、盧溝橋で詫びを入れて、また日帰りで韓国に行って、昔日本人が拷問をやっていたという刑務所跡地でまた詫びを入れた。あれは一体何だったんだということです。なんで、そんなハッスルして必ず15日に靖国に行くと言った人が、いきなり今度は中国まで行って詫びを入れたのか。これには日本国内の右の人も左の人も、本音の部分でがくっと来たんですね。この人はどういう論理的な筋道において行動してるのだろうか。

 ところがこれは、彼の中においてはコンシステンシーあるんです。対米配慮という一点において。つまりなぜ日帰りで急に中国や韓国に行ったのか。10月のAPECの総会の前にして、アメリカがテロとの戦いで連帯していくために、中国やアジアを引きずり込もうというときに、日中間の変な問題でさざ波立てないでくれよと。アメリカに、うまく調整しておいてくれよと言われ、「はい」と言って日帰りで中国や韓国に行く。こういうロジックですから、以外とコンシステンシーがある。対米協調という一点において論理が成り立っている。



共産中国の成立と日本の戦後復興

 衆議院の憲法調査会で呼ばれたときに同じ話をしましたが、昨年は日米安保が発効して50年という年でした。そして、日中の国交回復から30年でした。この50−30=20という20年間をどう認識するか。我々が今立っている戦後の日本の国際関係を理解する上で、ものすごく重大な20年です。安保と日中国交回復の谷間の20年。アメリカのアジア外交の空白期の20年です。

 1949年に共産中国が成立して、中国が2つに割れた。この間のことを書いたのが僕の「ふたつの『FORTUNE』」という本で、NHKがドキュメンタリーでやってくれました。戦前から戦中、戦後にかけて、ワシントンで反日親中国のチャイナロビーとして、中国の蒋介石政権と連帯して日本と戦うというキャンペーンを張ってきた人たちは、共産中国が成立したことによって、腰砕けになりました。自分たちが支援してきた蒋介石が台湾に追い込まれたことに衝撃を受けた。そこでバイメタルがひっくり返った。そこで、日本を戦後復興させて西側陣営の一翼に取り込んでいくシナリオが浮上してきました。

 僕のドキュメンタリーの主人公だったヘンリー・ルースという男がいます。タイムワーナーの創始者ですが、中国で長老派プロテスタント教会の宣教師の子どもとして生まれた。14歳でアメリカに戻り、エール大学を卒業してから一代でタイムワーナーをつくり上げたわけです。「タイム」や「ライフ」という雑誌を作り、「フォーチュン」を作って、アメリカのメディアの帝王に踊り出た男です。この男が、生まれ育った中国にひたひたと攻め寄せてる日本の危険性を、アメリカ人に知らしめる必要があるということで、真珠湾に向かう5年間に自分が持つあらゆるメディアを駆使して、アメリカの世論を反日親中国に変えた。それをずっと調べたのが、「ふたつの『FORTUNE』」です。ヘンリー・ルースは、蒋介石の夫人の宋美齢をアメリカに招いてヒロインにしたり、まさに反日新中国、チャイナロビーの頭目でした。その彼が応援してきた蒋介石が台湾に追いつめられた。そこで、大陸の中国を追い詰めるために、今度は日本を戦後復興させて我々の陣営に引き込むべきだという、日米安保を急げという圧力を、アメリカ政府にかけ始めました。彼がダレスなんかに送った書簡みたいなものが検証されています。



日米関係を揺さぶる中国の台頭

 そこで僕は何が言いたいか。日米関係の谷間に、中国という要素が複雑に絡み合っていることを、戦後の日本人が忘れてきたということです。どうしてか。この100年の歴史は、日米中のトライアングルの関係です。松本重治さんという有名な外交評論家がいましたが、彼が遺言に近い言葉として、日米関係は米中関係だと言い遺している。要するに、中国という要素が日米関係の谷間に横たわってると言いたかったんですね。事実その通りです。その一番いい例を、僕は今語りかけています。もし戦後のアジアで、蒋介石政権が中国の本土を掌握し続けていたら、日本の戦後復興は30年遅れただろうと言われています。アメリカの戦後のアジア向けの投資も支援も、すべて中国に向かって、日本の復興の余地は30年くらいなかっただろう。ところが僥倖(ぎょうこう)にも近いタイミングで共産中国が出てきたんですね。蒋介石は台湾に追い込まれた。それで、皮肉なことに、日本はわずか6年でサンフランシスコ講和条約で国際社会に復帰できた。イラクが湾岸戦争から十何年も経って、未だに国際社会での苦しい孤立の中にあることを考えたら分かりますが、国際社会に復帰できるというのは単純な話じゃないんです。だが日本人は、日米関係の谷間に絡みつく中国という要素を忘れていられた。

 ところがこれから、その構図を再び思い知らされる歴史の力学の中に入りつつある。これからの日米関係は、中国の強大化という要素によって揺さぶられる。中国の台頭をてこにして、日本から中国にバイパスしていくなんて単純な話ではなく、日本も中国も大切という相対的なゲームに、アメリカのアジア外交の機軸が変わりつつあることを、我々はこれから視界に入れておかなければいけない。大変難しい外交の舵取りで、日米同盟は永遠の機軸というエールを交換していればこの国は安定する、という時代ではなくなりつつあるから、大変だということです。何しろ対米配慮がこの国の唯一の外交機軸なんです。だから、アメリカのさまざまな局面局面での思惑で、憲法さえも含めて、さまざまな液状化とか流動化が起こってくるということを、視界に入れなくてはいけない。

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[5]日本を呪縛するアングロサクソン同盟

アングロサクソン同盟の成功体験

 つい最近、新潮社の「フォーサイト」で連載していた「歴史を深く吸い込み未来を思う」という新しい本を出しました。これは、20世紀とは何だったのかということについて、僕なりに検証したものです。お読みいただいたら分かると思いますが、ざっくり言って、日本の20世紀は、極めて際立ったいくつかの特色があります。最大のキーワードの1つが、「アングロサクソン同盟75年」というものです。

 1902年から1921年のワシントン会議まで、この国は日英同盟という英国との2国間同盟で、日露戦争から第一次世界大戦まで、勝ち組としてプレイしてきた思い出あります。ユーラシア外交の成功体験というやつです。その後25年、ダッチロールしました。21年のワシントン会議で日英同盟を解消して、列強の一翼を占める国になった。その自己意識で、ベルサイユ講和会議やワシントン会議に出て、列強模倣の路線、力比べに入ったわけです。それで海軍軍縮条約5:3:1.75という世界に入って、「一等国」という言葉が流行り、我々も一等国になったと盛り上がった。ところが、列強模倣の植民地ゲームに入って、満州国の夢、国際連盟よさらば、そして真珠湾という、25年間の思い出したくもないダッチロールに入った。

 それで、敗れて1945年から55年間、新手のアングロサクソンのアメリカとの同盟で生き延びた。49年の共産中国の成立もあって、アメリカの覚えめでたさを一身に浴びて、復興成長を遂げてきた。これが戦後の成功体験だとみんな思っている。経済力という意味においては確かに成功体験です。そこで、日本人の国際感覚の中に、アングロサクソン同盟を持っていた時だけはこの国は安定していたという、DNAみたいなものが埋め込まれているわけです。戦前の栄光の時代の日英同盟と、戦後の対米同盟に守られた今日の日本。この固定観念が成功体験だという二重構造が頭の中にありますから、この殻を突き破ってこの国の進路を考えていくことに対して、ものすごいおびえとためらいがあります。



成功体験の呪縛

 日本の将来の国際関係はどうあるべきかということを、どんな人とディベートしても、ここから別れていくんです。岡崎久彦さんという有名な外交評論家がいます。この国はアングロサクソン同盟を見失ったらダッチロールするぞと、彼は言い続けています。それが歴史の教訓、老人の知恵だと。間違ってもアジア回帰だとか多国間ゲームだとか、わけの分からないこと言ってはいけない。どんなに誘惑に駆られても、抱きつき心中と言われても、アメリカとの同盟にしがみつけと。それ以外にこの国の選択肢はないんだと。そして、冷静になれと言うんですね。若者よ興奮するなと。冷静に考えたときに、それが一番現実的で安定した機軸なんだと。ここが非常に説得力があるところですが、外交インフラのない国が虚勢張っちゃいかんと。アメリカにしがみついて生きていくのがこの国の生き方なんだと言う。大概の人は、そんなもんかなと思います。そして、そこから別れていきます。

 もし、岡崎さんの言う通り、21世紀の日本がそれで生きれるのなら幸せかもしれません。しかし、そうは行きません。中国の台頭で、アメリカから見たアジアのゲームの本質は変わってきているから、アングロサクソン同盟さえ踏み固めていけばよいという論理は、もう当てはまらない。そこで、トラウマとしての米国、アングロサクソン同盟75年の成功体験という呪縛から、健全なナショナリズム、開かれたナショナリズムへということです。閉ざされたナショナリズムというのは、近隣諸国にやたら不快感を撒き散らすようなナショナリズムです。

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[6]国家の要件としての常識

米軍の異常な長期駐留

 要するに、2つの常識に帰ろうと主張したい。それは、グローバルなコモンセンスです。歪んだナショナリズムではありません。例えば一つは、独立国に外国の軍隊が長期にわたって駐留していることは異常なことなんだという常識に帰ろうということです。今日も、東京23区の1.6倍、4万7000人、1000万坪の米軍基地を抱えているわけです。ドイツが93年にやったような地位協定の改訂のような試みもない。米国が世界に展開している海軍基地の中で、佐世保と横須賀のような海軍基地のステータスを持っているのはキューバのダンナモア基地以外ないというぐらい、占領軍のステイタスのまま存在し続けている。この途方もない状態を続けながら、それでも構わないんじゃないかという雰囲気でいるわけです。

 敗戦の過渡的状況下で、独立国に外国の軍隊が駐留しているなんてことは山ほどあるし、ドイツにだって米軍基地あるじゃないかという人もいるかと思います。けれどもドイツは、93年の地位協定改訂も含めて、手を変え品を変えして主権、主体性の回復に散々努力した。この国は、60年安保以降、まともな地位協定改訂のアジェンダを提示したこともなく、思いやり予算まで積み上げて、アメリカにしてみれば、最も覚えめでたいwillingな、便利な基地を提供している。



安保は自動的に日本を守らない

 2つ目の常識は、米国は自らの世界戦略と、その時点での米国の世論の枠でしか日本を守らないという常識です。日米安保は善意の足長おじさん条約なんかじゃないということです。この国が地域紛争に巻き込まれるようなことが起こったら、瞬時にアメリカが、日米安保を発動して駆けつけてくれるんだろうと思っている人が多いですが、とんでもない誤解と錯覚です。

 例えば、一番分かりやすいのが尖閣列島問題です。尖閣をある日中国が突然占拠したとする。その瞬間に、日米安保が発動されてアメリカが日本のために戦ってくれるのかなと期待している人がいたら、とんでもない間違いです。なんでアメリカの青年の血を流してまで、日本の地域紛争に介入しないといけないのかという意見が、アメリカには根強く存在している。特に尖閣については、日中間の領土問題に巻き込まれたくないというイシューです。アーミテージレポートのように、アメリカは日本の世論を配慮して動くべきだというようなレポートもなくはないけれども、国務省の意見なんかに付き合って、日中間の領土問題に巻き込まれるべきではないという意見の方が、はるかに根強い。

 ところが日本の立場から言えば、冗談言ってくれるなという世界です。いわゆる尖閣というのは、沖縄に施政権が返還されるまで、アメリカ自身が施政権を持ってた地域なわけで、「あそこはどっちの国の領土だか分からないよね」なんて言うような、そんなとぼけた話の対象ではないんです。ところがアメリカは、中国に対する息を呑むような配慮の中で、この問題に対してコミットするのを避ける。アメリカのその時点での世界戦略と国民世論の枠の中で、日本を守るべきだという意識でも高まっていれば、動かないとも限らないけれども、自動的にこの国を守ってくれるような条約ではありません。これは日米安保条約を読んだら、いろはの「い」みたいな話です。



アメリカの周辺国という現実

 この点について集約してお話ししておくと、そろそろ対米関係の再設計が必要だということです。つまりアメリカというフィルターで世界を考えるところから、外交安全保障でも、経済産業政策でも踏み出していくところに、我々はそろそろ来ているのではないか。虚勢を張った反米や嫌米ではなくて、一つの機軸を持った哲学が問われているのではないかと、つくづく思います。例えば安全保証の問題について言えば、ドイツと同じように、基地の段階的縮小のプログラムを提示する。そして地位協定の改訂を提起する。これは現代の「条約改正」だと思います。小村寿太郎、陸奥宗光を持ち出すまでもなく、我々の世代に掲げられたテーマです。

 世界中でいろいろな人と議論しますが、日本人は自分を大人だと思い込んでる子どもみたいなところがあります。中国の精華大学との提携なんかで中国によく行きます。ロシアのサハリンプロジェクトで、ロシアの若い世代の要人とも議論をする。彼らは、表面建前では日本は戦後復興した立派な国だと言いますが、本音のところに横たわっているのは、日本はアメリカの周辺国だという位置づけをしています。アメリカの有名な外交評論家と言われている人たちが書いているようなレポートでも、日本のことをプロテクトレート、つまり保護領という言葉で思わず本音を出してしまっているようなレポートもあります。

 なぜかと言うと、客観的に言うとそうだからです。過去50年間、冷戦の時代にアメリカの核の傘の下でこの国の安全が守られてきたということを、仮に積極的に評価する立場の人、あるいは、この先50年この国に今のまま米軍基地が存在してちっとも構わないという意識の人が、国際社会でまともな大人として発言できると思っているのか。そういう意味で、日本は自分を大人だと思い込んでいる子どもだということです。

 さまざまな体験があります。私自身一番衝撃を得たのは、IJPCというイランの石油化学のプロジェクトについて、イランのホメイニ政権と行った交渉でのことです。これは1989年の段階、ついこないだの話です。これから全面撤退するということに合意した後、最後の瞬間に、イラン側がアメリカの裏書保証をもらってきてくれと言い出した。なぜアメリカの裏書保証がいるのか。平然と言い返されました。日本はアメリカによって守られてる国であり、中東に軍事プレゼンスを持ってるのはアメリカだ。中東の日本に向かう石油のシーレーンを守っているのはアメリカだ。アメリカがNOと言うシナリオに、あなたたちがYESと言うだけの力はあるのか。そう聞き返されて、二の句がつけなくなる。

 もちろんアメリカの裏書保証なんかもらわなかった。だけど、その瞬間見えることは何か。彼らの本音の中に日本はアメリカ周辺国だという意識がある。これは日本人にとって、はなはだ自尊心を傷つけられることですが、率直に言って、我々は気がつかなくてはいけない。昔、明治の人たちは関税自主権とか治外法権を含めて、国家が国家であるために必要な要件くらい分かっていたということです。今の日本人は、さっきの茹でガエルじゃないけれども、何やら問題の本質が見えてるのかどうか、そのことについておかしいと思わなくなった。これはとんでもなく怖いことです。その問題意識がものすごく重要だろうと思います。

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[7]イラク攻撃に見る戦争への心理

不条理な戦争への日本の態度

 イラク攻撃が迫っていることについては、攻撃を前提した上で「いつ開始されるか」という質問を受けます。そういうメディアの世論の作り方自体が恐ろしいわけですが、こんな不条理な戦争はありません。イラク攻撃のアメリカの建前と本音を考えてみると、9・11アルカイダとイラクとの関係は検証できたのか。明確に説明がなされているのか。これはもうハテナですね。アメリカがいろいろ言ってきた話がぐじゅぐじゅになった。だから最近はそういうことを言わなくなった。

 それで、大量破壊兵器一点になってきた。大量破壊兵器は、国連に対する約束違反だということで追い詰めています。けれども、これも大阪夏の陣の徳川家康みたいなもので、鐘の銘にまでケチつけて、何としてでも戦いに持ち込もうという乱暴な論理です。もし大量破壊兵器が危険であり許されないのなら、まさに日本こそ、大量破壊兵器を拒否することを国是としている国において、イラクの大量破壊兵器にも敢然と抗議すべきです。イラクと日本は正常な国交を持っていて、代理大使が東京にもいます。ですから、代理大使を毎日でも呼んで、大量破壊兵器だけについては日本は許せないんだということで、過去3年くらい積み上げてきたのか。そうでもない。では、世界最大の大量破壊兵器をもった国、しかも使用についても最大の実績をもった国に対して、大量破壊兵器の廃棄について、敢然と問題を提起しているかと言えばそうでもない。要するに何だか筋が通らないところにつき合わされている。



ICC構想でテロと戦う

 もし本当に、テロとの戦いとして国際社会を作っていかなきゃいけないとするならば、来年の夏にできるICC構想、国際刑事裁判所に、僕はものすごくこだわってる。これは60ヵ国以上の国が、昨年の6月末に国際刑事裁判所構想を批准して発効することになった。これからそういうものを構想しなきゃいけないなんて中途半端な話ではない。アメリカは前政権のときには国際刑事裁判所構想にもコミットしていましたが、京都議定書と同じことが起こってしまっている。ドロップアウトしちゃったんです。

 しかもご丁寧に、その後世界180ヵ国に2国間協定を結べと圧力をかけている。何やっているかと言うと、「あんたの国でアメリカ国籍をもった人間が刑事犯として逮捕されても、絶対ハーグの国際刑事裁判所に引き渡さないという協定にサインしてくれ」と圧力をかけているんです。現実に、NATOなんかに加盟したくてしょうがないような旧東欧の国々に対してその鼻薬がすごく効いていて、NATOに加盟できたルーマニアはしぶしぶ協定にサインをしました。アメリカという国は今、自国利害中心主義、ユニラテラリズムの権化だと盛んに非難されています。

 本当なら9・11は、19人のテロリストが起こした組織犯罪です。国境を越えた組織犯罪に対して、液体を紐で縛るようなことかもしれないけど、歯くしばって、世界の人道という見地から国際刑事訴訟の手続きをつくり上げていく。欧州がそうやって一生懸命旗を振っているのだから、それに対して連帯して初めてテロとの戦いという仕組みが構築できる。



「戦争」の回答に筋道を通せない日本

 けれども、アメリカの今の市民は「おれだけは例外だ」と言う。おれは放っておいてくれ、国際ルールに縛られたくない、おれだけはそれに参加したくないというエクセプショナリズムです。それで、回答は戦争だと言うわけです。戦争が問題を解決する論理なのかというときに、紛争解決手段を武力としないという、最も尊い9条精神を持つこの国が、戦後近代史の中から一つの教訓として先輩たちが踏み固めようとしてきたことを見失ったらとんでもないことになる。

 まさにその立場から、日本こそ国際刑事裁判所構想に一歩前に出て旗を振ってもいい。ところがこれが変な話で、この件については、実は日本が一番先頭を走っていました。あらゆる予備会議に出て、推進役みたいなものだった。ところが、アメリカの腰が引けるにつれて、去年の7月1日に川口外務大臣談話というのを出しています。国際刑事裁判所ができるのは結構なことだという歓迎の談話でしたが、一向に批准しない。しようとさえしない。アメリカに合わせているとしか思えない。ヨーロッパ行くと、「あなたたちは何を考えているんだ」と散々からかわれます。

 要するに、もし本当にテロとの戦いであれば、まず今言ったような筋道を通さなければならないことがある。戦争というカーブを切る前に、国境を越えたような組織犯罪をどうやって制御していくのかというルールとかシステム作りに、一生懸命努力をしなければいけない。



軍事的全能と経済的不安がもたらす心理

 9・11が起こった瞬間に、ブッシュが「これは犯罪じゃなくて戦争だ」って叫んでしまった心理は、百歩譲って同情しなくもない。6000人からの人が殺されたという情報が乱れ飛んでいたわけですから。1年以上経って、結局3000人くらいの人が死んだと。19人の人が犯人だと。19人のうち15人がサウジアラビアのパスポートで入国してたと。そういうさまざまな事実が積み上ってくる中で、どうやってこの種の犯罪を制御するのか。そこでいきなりアフガン攻撃というシナリオになった。これも本当はおかしなシナリオだけれども、アメリカの溜飲を下げるためにはやむをえないのかということで、世界がしぶしぶつきあった節もある。

 さらに今のアメリカの心理で非常に危険なのは、経済的な不安感が高まっていることです。アメリカに流れ込んでいた金が、すっと引き始めている。ユーロの立ち上がりなどもあり、金利の魅力も全部相対的になり、世界からのアメリカに流れ込んだ金が前年比でマイナス7%ぐらい落ち込みはじめている。それが今ドル安株安の大きな要因になってるわけですけれども、そういう経済不安を抱えてる。株本位制とも言えるような国が、産業構造が変質した中で、株に不安感抱えているわけです。社会不安もあります。最近アメリカに行って、本当にこの国も大変なことになったと思いますが、9・11だ、炭疽菌だ、連続射殺魔だということで、ワシントンあたりもまことに息苦しい街にどんどん変わってきた。

 そういう社会心理的不安、経済不安が背後にあって、一方で極端な軍事的な肥大化、自分の軍事力に対する極端な過信がある。確かに世界の軍事費の支出を見ると、アメリカ1国だけで第2位から第15位までの国の軍事費よりも大きい。軍事技術も異常な突出している。リモートコントロール戦争、ITを使った兵器というものをダントツに蓄積している。今度のイラク攻撃に関しては、戦術核さえ準備して、地中貫通100メートル兵器というやつを準備している。今までは20メートルくらいしか貫通できなかった。ところが今度こそサダム・フセインを取り逃がしちゃいけないということで、100メートル貫通兵器や戦術核まで使うという。軍事的に全能であるという幻想と、経済的な不安が真っ只中にある人間は、心理的にも溜飲を下げる方向に走ります。自分の力で問題を解決できるんじゃないかという幻想で、ものすごい危うい構造の中に入っている。



戦争に巻き込まれる茹でガエル

 我々は今、息を呑むような世界史の転換期みたいなのに差し掛かってるのに、何やら不思議な虚偽意識の中で、茫漠とした茹でガエル状況の中を生きている。どこかで問題を整理して、自分たちの意思や怒り、不条理に対する問題意識を研ぎ澄まさないと、茹でガエルでいるうちに戦争が起こっても不思議ではないという生き方をしてしまう。余計なことを言う気はないですけれども、小泉さんは靖国に行ったときに「二度と戦争を起こさないために行った」という決意を込めていたという話もありますが、もし本当にそれだけ戦争というものに対して感受性があるのならば、この世界の空気に対して政治家として、政治で飯を食っている人間として、激しい問題意識を持たなかったならば筋道が通らない。いずれにしても、今の日本はそういう状況になっているっていうことを、まず問題として共有しましょう。どうもありがとうございました。

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