「憲法 .com」トップページへ
シンポジウム「市民が憲法をつくる」(第1回)トップページへ

「あの人が語る憲法」トップページへ

 菅直人 コメント  シンポジウム「市民が憲法をつくる」(第1回)

菅直人(民主党代表)
(タイトルをクリックするとその項目にジャンプします)
 ・イントロダクション
 ・国民主権が機能してこなかった憲法
 ・野党としての民主党の存在
 ・自治体に第一義的な権限を
 ・民意の反映が遅い二院制
 ・土地の所有権はあり得ない
 ・会計検査院を国会へ
 ・江戸時代のスローライフへの回帰
 ・自ら憲法論議のハンドルを握る



イントロダクション

 菅直人でございます。こういうシンポジウムがあるというのを聞いてプログラムを見ましたら、どういうわけか私の名前が入っておりまして、必ずしもOKした覚えが記憶になかったんですが、この会そのものには行きたいと思って、時間を作ってやってまいりました。

 去年の暮れに仙谷さんにお電話して、五十嵐さんの「市民の憲法」を、書かれた直後にももらったんですけれども、まだ本棚に置いてあったので読もうと思っていたら、仙谷さんが「いや、あれは目次だけ読めばいいよ」と言われたわけですが、しかし、年末年始をかけて目次だけじゃなくて中身も、読んでまいりました。

 そこで、多少の時間をいただいているようなので、私の考え方を、現在の憲法の動きを含めて、少し述べていきたいと思います。

このページのトップへ


国民主権が機能してこなかった憲法

 1946年に現在の憲法が公布され、あと2年で暦が戻り、60年の還暦を迎えようとしています。この間に一字一句変わっていない憲法であるわけです。もちろん、この憲法は国民主権、平和主義、基本的人権、優れた憲法である。私もそう思います。

 だが、優れた憲法だから変える必要がなかったと、そう言いきれるならば、それはそれでいいんですけれども、必ずしもそうではない。つまりは、優れた憲法であったかもしれないけれども、だから憲法を変えてこなかったのではなくて、やはり憲法を自らの手で変えるだけの民主主義としての強さが日本はまだなかった。民主主義が弱いからこそ、憲法に手をかけないで解釈によってその状況にあわせてきた。こう見る方が正確ではないかと思っております。

 その中で、いわゆるイデオロギー的な対立によって、憲法の議論がなかなかしにくかった。実はもう一つあると思う。法律も国会が作ることになっているけれども、大部分は官僚が作ってます。憲法解釈も官僚がやっている。つまりは、日本では憲法の中に、国民主権ということが、前文において明確に書かれているにもかかわらず、実は国民主権の憲法として機能はまったくしていないということが、最大の問題だと思っている。

 憲法がこれだけ明確に国民主権を明記しながら、なぜ機能しないのか。あえて言えば、日本では、市民革命によって憲法を作っていないから。つまりは自分たち国民主権という原理に沿って憲法を作っていないからだと、こう思うんです。まだ明治憲法の方が、中身は“万世一系の天皇これを統治する”という、まさに国民主権ではない憲法ではありますけれども、多少なりとも議論があって作られています。今の憲法は決して悪いものだとは思いませんが、そういう自分たちの議論がないまま作られてます。

 私は幸いにして、大学では憲法の講義は一度として受けたことがない人間ですから、比較的自由にものが考えられるかもしれないですけれども、逆に言えば憲法というものに対しては、いろいろと解釈はするけれども、こういうつもりで作ったんだと言える人間がいないところに、国民主権の憲法でありながら、実は、国民主権の憲法として機能してこなかったと思っています。

 今日はあまり時間がありませんから、多くの例を挙げることを避けたいと思いますが、一つだけ。例えば会計検査院に匹敵する、アメリカにおけるGAOという制度を国会に設けようということを、今から10年ほど前、さきがけの時代に私も取り組みました。

 何と言われたか。時の総務庁の担当者がやってきて、「国会は立法府ですよ。その国会に行政の監視をして、そして、それに対して勧告権を出すような、そういうものは行政権の範囲に属するんだから、立法府に設けるなんてものは、憲法の三権分立に違反している」ここまで言いました。そして彼らはその文章を役所の中、与党の中を回したわけであります。

 私はその担当者を連れて来て、「どこに憲法の中に三権分立という言葉があるのか。なぜ国会が行政を監督できないのか。議院内閣制というのは、国民が選んだ国会議員が、行政の、少なくとも国の責任者、総理大臣を選ぶんじゃないか。内閣が連帯して国会に責任を負うというのは、内閣は国民に直接責任を負わないで国民に責任を負うというのは、国会が行政を監督する責任を明記しているんじゃないか」こう言ったら、結論的には、彼らは三権分立に違反するという意見を取り下げました。

 これは一つの例ですけれども、少なくとも日本の憲法では国民主権なんていうのは、まったく霞ヶ関にとっては、まさに*1美称説か何て言うか知りませんが、単なるそういう存在であって、すべては自分たちの権限。冒頭申し上げましたようにイデオロギー的対立もあったけれども、法律の憲法解釈もすべて、官僚に任せてきた。それが日本の民主主義の弱さ。このように思っているところです。

このページのトップへ


野党としての民主党の存在

 あえて言えば、昨年の衆議院の選挙から状況が変わってきた。かなり主観的なことも含めて、そう思っております。つまりは、みなさん方にとって民主党という存在は、いろんな見方があると思いますが、少なくともかつての55年体制の野党ではありません。そして、衆議院の3分の1、160名を越える議席をいただいたということは、少なくともこの議席がある限りは、自民党がどういう憲法改正案を出しても、発議を阻止することはできます。しかし、逆に言えば、私たち民主党がこういう憲法を作ろうといたときには、自民党が「まあ、自分たちはもうちょっとこうしたいんだけれども、民主党がそこまでしか言わないんだったらそれで行こう」こう言えば、発議は十分に可能になります。

 昨年の有事法制、緊急事態法制についても、いろんな見方はあると思いますけれども、民主党の存在というものは野党ではあるけれども、これからの日本の基本的な問題については、民主党が“ここまではOK”とした問題については、全体としても進んでいく。決して民主党という党のことだけで申し上げているわけじゃありません。もちろんオープンな議論もその中でしていく。そういう存在でありたい。ドイツにおける社民党もそういう存在の中から、*2基本法を変え、あるいはドイツの海外における軍事行動についても、当初のNATOの内側から、次第にあるルールの中で拡大し、今日はEUの議論があったようですけれども、EUの緊急展開軍といった形にも参加をすることになってきた。このように思っております。

このページのトップへ


自治体に第一義的な責任を

 ここで少し、憲法のあるべき姿について、私なりに思いを申し上げてみたいと思います。やはり何と言っても国民主権の問題をきちんとすることだと思っております。その中では、当然のことながら、国と国民の関係、そして国と地方の関係、そういった問題がまず国の形として最重要だろうと思っている。

 憲法94条に、地方公共団体の行政執行という言葉がありまして、この行政執行権が国の行政権とどういう関係にあるのか、直接的な、国が上で地方が下なのか、並列的な関係なのか。時の法制局長官大森さんは、並列的な関係であるという答弁を、予算委員会で私に対して致しました。この原則でいい。ただ、今の憲法でははっきりしていません。

 つまり主権者である国民が、ある権限には国に、ある権限には都道府県に、ある権限は基礎自治体に、それぞれの権限を信託していくという考え方をもっと明確にして、先ほど仙谷さんも言われておりましたけれども、補完性の原理というのでしょうか、やれることはまず自治体が第一義的に責任を持つ。それができないところについて、あるいはもうちょっと広い範囲の問題、あるいは共通ルールの問題は、広域自治体、あるいは国がやっていく。この原理ですべて律すれば、一つの形が出てくる。こう思っております。

このページのトップへ


民意の反映が遅い二院制

 それに加えて、内閣のあり方、国会のあり方、直接大統領を選ぶ制度がいいのか、議院内閣制がいいのか。これも相当の議論が、この間行われました。さらには議院内閣制が、二院制度でなければいけないのか、一院の議院内閣制の方がいいのか。こういった議論も、避けることはできないと思ってます。率直に申し上げて、議院内閣制の二院制度というものは、私の実感から言うと、大変、ある意味で、まあ何という表現をしたらいいんでしょうか、国民の意見の反映がものすごく遅れますね。

 つまりは、一院であれば、その一院で勝てば少なくとも4年間なら4年間は、政権は変われます。しかし、参議院が、いっぺんに選挙はありません。たとえば98年の例を言いますと、参議院で私たち当時の野党は過半数を取りました。過半数を取ったら何が起きたか。自民党は衆議院で過半数、参議院では過半数よりか少ない。だから、だれだれにひざまずいてでも、連立を組まなければいけなかったんですと言って、自公、自自公政権ができ、自公保政権ができてきた。今も公明党の存在というのは、いわば参議院における過半数割れを理由に、そういう連立をやむなし、国のためだと、こういう論理になっていることは、みなさんもご承知の通りです。

 そういった意味で、私は、民主主義というのは一定の期限を決めて、ある程度の独裁権を時の政府に任せる。しかし4年間を越えたら、もう一回チェックをする。もちろん特殊な例は、その4年間の間でも、それを変えることもあってもいいと思う。そう考えますと、必ずしも二院制というよりも一院制の方が、はっきりしている。こういったものも含めて議論をすべき問題だと思っております。

このページのトップへ


土地の所有権はあり得ない

 もう一つ、私はもう十数年前、五十嵐さんと一緒に、都市計画法の改正という問題をやったことがあります。財産権29条。財産権はこれを犯してはならない。こう書いてあります。これは、多くの人たちが所有権のいわば絶対化として、「おれが持ってる土地なんだから、駅前の土地であったって大根を植えたって何が悪いんだ」「お寺の前だってビルを建てて何が悪いんだ」、日本の土地利用はすべて、逆に言えば29条の絶対的な所有権というものを、これから間違って導き出した。29条自体にも、公共の福祉にとって使うべきだという規定は入っているのですが、公共の福祉という概念が、非常に不明確だ。

 私は京都を見てきたが、わざわざ京都を壊している。先日も円通寺という寺に行きましたら、比叡山まで4〜5キロあるんですけれども、庭からの借景、その間に今のところ、まだマンションやビルは建ってませんが、もう数年経ったら、もうこの借景は難しい。そこのお坊さんも頑張っておられました。

 こう考えますと、土地と利用というものは、私に言わせれば土地の所有というものはあり得ない。土地というのは地球の表面でありますから。土地は、地球の表面はおれのものだと言えるのは、天地創造の主くらいでありまして、せいぜいしばらく使わせてもらうというのが、土地に対する所有権の中身だと。ましてその都市における、あるいは日本における土地の利用というのは、まさに国民全体の中で適切な利用の仕方をする。もちろん保障することは当然かもしれません。この29条の問題は、財産権の問題と同時に環境権の問題などにも、ストレートに入って、関係してくると思ってます。

このページのトップへ


会計検査院を国会へ

 また、先ほど申し上げた会計検査院が、憲法では規定されておりますけれども、私は会計検査院を内閣からも国会からも独立させているというのは、結果的にまったく効果のない会計検査院になっている。先ほど申し上げたように、議院内閣制を取るならそれは国会におくべきだ。国会は予算権を握っているんです。今の憲法における会計検査院の位置づけは違っているんではないかと思っている。

このページのトップへ


江戸時代のスローライフへの回帰

 最後に一つだけ、私自身もまだわからない問題があります。日本で憲法という言葉を使った最初かどうかわかりませんが、7世紀の聖徳太子の十七条憲法というものがあります。この十七条憲法を読んでみますと、人間のあり方、国のあり方、そういう理念と言いましょうか、ある意味では倫理と言いましょうか、そういうこと多く盛られている。今の憲法はどちらかと言えば制度は書いておりますけれども、そういう人間のあり方といった問題は、多少前文の中にありますけれども、全体としてはあまり含まれておりません。私は憲法を考えるときに、もう少しそういう議論もあっていいのではないか、このように思います。

 そのときに、何か戦前を回帰するような議論が最近多くなっております。私にとって回帰するものがもしあるとすれば、明治よりも前の日本ではないかと思っております。つまりは明治よりも前の日本というのは、300年近く少なくとも平和を維持し、そして、鎖国をしろとまでは言いませんが、日本の山々から採れる木で家を建て、そしてモンスーン地帯の日本の農業で生活をし、そして識字率などを考えますと、当時のヨーロッパにも決して勝るとも劣らない文化大国だったと、私は自信をもって見ることができると思う。

 その中に、最近はやりの言葉で言えば、スローライフとでも言えるような、一つの八百万(やおよろず)の神が存在してそして自然とともに共生していく、こういう考え方があったんではないか。逆に言えば、明治以降は、近代化を急ぐために、ある意味では廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)によって無理矢理に、神道というものを唯一の宗教にして天皇制を中心に据えて、官僚国家を作り上げて成功して、失敗したのが太平洋戦争。もう一回成功して経済大国になって、今失敗しているのが今日の官僚制だ。

 このように考えますと、日本の、もし戻るべき一つの参考にするところがあるとすれば、明治以降の130年の中の理念の前にあったものではないか。それをうまく憲法の中に盛り込めるのかどうか、私にもこの部分はまだわかりませんけれども、そういう認識を持っているところであります。

このページのトップへ


自ら憲法論議のハンドルを握る

 そういった意味で先ほど政治日程の議論もありましたけれども、あまり言いますと野党第一党の横暴だと言われそうなので、あまり繰り返しませんけれども、しかし、これからの議論というものは、いくらでも止められるブレーキはあるんです。しかし、これまでの議論はブレーキしかない議論であって、自らハンドルを握るという議論がありませんでした。私たちは自らハンドルを握って、ブレーキをアクセスをどう踏むか、まさにこの議論を国民のみなさんの中で大いにやっていただきたい。

 まさに今日のこの会は、これまでもこの五十嵐さんの本が出たときから、そういう会として議論されている。そういう風に理解してましたし、私も何と言いましょうか、タイミングを見ながら一つの発言なり行動をしていきたいと思っておりましたけれども、そういう意味では“その時”が来たのではないかと。

 つまりは、最初の話に戻りますと、国民主権の憲法を、本当に日本の憲法とするためには、国民主権という発想でもって作らない限りは、解釈によっては国民主権の憲法にならなかったというのが、この60年間の、私は憲法の実態であった。論憲も、先ほど言った内閣のあり方から国会のあり方すべて含めて、そのように思っておりますので、そういった意味では自分たちの、まさに国民主権の気持ちで、つまりは市民革命というものを暴力革命ではないとしたら、まさに憲法を自分たちが作ることが、市民革命の現在におけるあり方ではないか。

 このように考えて、決して焦る必要はありません。焦りはしませんけれども、わざわざゆっくりする必要もありません。多くの政治課題がありますが、どの政治課題を優先するかということはありますけれども、自民党の土俵に乗る必要もありません。昨日ある会で、小泉さんの前で話をしましたら、「いやあ、菅さんそれなら、自民党と民主党で話し合いの場を作ればいいじゃないか」「いや、それなら自民党と民主党が連立したらいいじゃないか」。まさにそんなことをやったら密室の議論に完全になってしまう。そんな馬鹿なことをするほど、民主党は馬鹿ではないと、そこだけは信じていただいていいと思います。

 つまりは、違う政党であって、国会その他の場で、多くのみなさんの議論と同時に、この議論をやっていく。その時に、自民党が出したものを受け、言い合えばいいのではなくて、私たちは私たちなりの考え方、みなさんと共にそういうものが作れれば、その中で逆に自民党に、これでどうなんだということをですね、迫るような形の議論を展開したい。このように思っているところです。

 多少言い過ぎたところは、私今日は肩書きなしで来ておりますのでですね、菅直人個人の意見ということでご理解をいただきまして、今日のこのコメントということになっておりますが、私の与えられたコメントということに代えさせていただきます。どうもありがとうございました。

このページのトップへ



*1 美称説:憲法第41条の国会は「国権の最高機関」であるという文言は、“政治的美称(単に褒めただけの言い方)”に過ぎないという解釈が通説となっている。主権者である国民が代表を選ぶ機関であっても、「最高機関」として認められないとする考え方でもある。 本文へ

*2 基本法:ドイツの憲法のこと。ドイツでは憲法を基本法と呼んでいる。 本文へ