五十嵐敬喜(法政大学教授)「直接民主主義の設計」

五十嵐敬喜(いがらしたかよし)
法政大学法学部教授 都市政策、立法学
弁護士 市民版憲法調査会世話人

●主な近著
「市民の憲法」(早川書房)
「図解公共事業のウラもオモテもわかる」(共著 東洋経済新報社)
「美しい都市をつくる権利」(学芸出版社)

憲法をめぐる3つの危機感

 私は「議員立法」という本の中で、従来の法解釈学から新しい“立法学”をやろうと提案したことをきっかけに、大学に行くようになりました。憲法学は専門ではないが、大学で公共事業研究をしながら立法学を講義してきたところ、危機感を覚えてきました。一つは、9・11のテロ以降、非常にきな臭い状況になっているということを感じました。二つ目は、憲法というと9条しか論じられないが、公共事業を見ているとほかにも重要な論点が見えてきました。しかし、それらはほとんどなおざりにされていると感じました。三つ目は改憲派と護憲派の会話がまったくありません。公共事業での市民運動の延長で、憲法でも市民が主体となる新しい論点を抽出して、日本国憲法がどうあるかを考えなければならないと思います。


護憲派・改憲派を超えた事実の共有

 では、どういうことを考えるべきかを検討したものが、「市民の憲法」という本です。これは法政大学大学院の私のゼミに参加しているメンバーの原稿を基に書かれた本です。執筆にかかる前の事実整理にあたっては、立法学の手法を最大限に使うことを意識しました。普通の憲法の教科書と違うところは、事実をまず提出して、それについてどう思うか、そして事実を共有した上で改憲なのか護憲なのかを論じている点です。事実の共有ができれば改憲論者も護憲論者も同じ土俵にあがって議論できるんじゃないかと思いました。


これからの100年を見据えた憲法へ

 次に日本国憲法は50〜60年の生命力を持っています。今度考える憲法は、第3の憲法として60年、100年という単位のものになるので、そのように歴史を大きくとりたいと考えています。現時点での問題と、60年くらい先をオーバーラップさせて考えていきたいと思います。今の憲法が制定されて、60年で何が一番変わったかというと“市民の成熟”です。この先60年、100年でその成熟は最高に発揮される時代になるでしょう。そういう視点で憲法を見ていきたいと思います。また、いまの憲法では第1章第1条が天皇になっていますが、第3の憲法では国民主権が最初に来るべきではないかと考え、体系的にも従来の憲法学に問題提起を行い、市民が共有できる憲法にしたいと考えました。


三権分立を考え直す

 従来の憲法の構成はジョン=ロック以来の間接民主主義を前提にしています。その中で市民が重要なのは日本国憲法の前文でも、また、すべての憲法の教科書でも国民主権という形で書かれている。そして議会を置いて、国民から信託を受ける形で議会に議論を行わせる。しかし、議会だけで権力を構成するのではなく、行政や司法があり、三権分立論という形になります。このジョン=ロックのモデルが、すべての近代国家のモデルとして普遍的なものになっています。
 従来の三権のモデルでは、立法、司法、行政に権力を三分割して、三面の図に分ける。ところが、現実では行政が肥大化してきている。それに対して、法政大学松下教授のイメージでは、三権は三面体ではなくて国会を頂点に置く。国会を一番強いのは、行政、司法は市民が選ぶという民主主義の基礎を持たないからです。憲法41条には「国会は国権の最高機関」とあり、それは民主主義の議論では実質的な意味を持っています。しかし、従来の憲法の教科書では、国会が「最高」であるという位置づけがあいまいで、だから行政が侵食してくるというのが松下先生の理解です。松下先生は、国会がイチシアチブを取らなければいけないというのが近代憲法、日本国憲法の解釈として正しい姿であると言ってきました。

自分たちのことは自分たちで決める

 松下説は20年くらい学会からアンタッチャブルとされてきましたが、行政の危機が見えてきた中で再浮上して来ました。しかし、議会は民主主義や国民主権を考える上で実質的に重要なのか、国民にとって確信の持てるものだろうかというのが、(松下説を進歩させるための)私の考えの出発点です。国会は国民の信託を受けた正当な代表者として機能しているのかと考えると、特にいまはひどい状況で、国民の信頼を得られない堕落しはじめました。さらに地方議会では公共事業をみると約3300自治体の議会、2万人の議員がオール翼賛体制になっています。諫早湾干拓、長良川河口堰など、国民の大半がいらないと言っているものを、ほとんどの議会が翼賛体制で支えている。そういう議会とは何なのか。なぜ国会に行政を従える力があるのかというと、立法をするからです。ところが国会で立法を行うのは9割が官僚、地方議会ではゼロに近く、議会はほとんど立法をしていません。長野県では田中康夫知事に対抗して、ダムに関する条例を県議会が作りましたが、それが県議会成立して以来、初めての立法という状況です。議会はまったく立法ができません。その不満の典型が“住民投票で決めよう“ということでしょう。
 吉野川河口堰の問題には民主主義の匂いを感じます。地方議会を変えて、住民投票を成功させて、さらに市長を変ええ、県知事まで取りました。自分たちのことは自分たちで決めるということが日本でも現実化してきたのです。これを、憲法を考える上での出発点としたい。最終的には自分たちのことを自分たちで決めるというのが、国民主権の姿ではないでしょうか。そういう形で現在の体制を見るとおかしなことが見えてきます。


“国家”の枠を外して考えよう


 憲法には基本的人権と統治機構という二つの要素があります。市民が決める議会が最高ということなのに、この後ろに“国家”というものがあって、統治機構のさらに上で国家がすべてを包摂しています。基本的人権では、“国家”という、目に見えない、どこにあるのかわからないものを前提として、“国家からの自由”を考えています。どうもおかしいと思います。ジョンロックの信託論では、自分たちが選んだ人物をチェックする投票権と、ダメな場合は解任する権利があります。しかし、そこから国家という概念までは非常に遠く、にもかかわらず世界中が国家という幻想を持っています。国家とはどのように根拠付けられるのか、基本的人権からは説明ができていません。統治機構では、主権者である国民がいつの間にか“統治”されます。国会、行政、司法、さらには地方公共団体も、国民を統治する、命令する機構であると説明されています。なぜ主権者である国民が、選挙で代表を選んだとたんに命令を受けなければいけないのでしょうか。
 基本的人権も統治機構も、“国家”という枠を外して、ひとつひとつ事実や論理を確かめながら考えました。基本的人権として外国人の権利や環境権、そして地方公共団体、国会、行政、裁判所などについて、直接民主主義、国民主権、自己決定権ということから考えるとどのような論点があるのかを、「市民の憲法」で論じています。伝統と文化についても、市民の主権を考えるには、それぞれの国民の個性を決める文化や歴史、誇りなども憲法レベルで考えなければいけないのではないかと思います。  従来の護憲論、改憲論から違った視点から、問題提起を行い、市民の間で議論していただいて、自民党が改憲案を出すときに新しい憲法案が市民の側から国会に出して、国民投票にかけようと運動を興したいと思います。

補 足

 アメリカ、ドイツ、スイスの直接民主主義の例で重要なことは、住民投票の結果が最終決定になるということです。これに対して日本の場合は、知事や市長、議会が、政治的な状況で縛られるということにはなりますが、最終決定にはならず、これを無視することができます。日本では、国レベルで国民投票を最終決定にすると、国会が「唯一の立法機関」であると定めている日本国憲法では憲法違反になります。日本では間接民主主義を中心に、直接民主主義を補完的に使っているが、私たちはこれを選択性にするために41条を論じてはどうかと思います。


1 開講のあいさつ 五百蔵洋一(弁護士)
3 田岡俊次(朝日新聞編集委員)「有事法制の問題点について」
4 中村啓三(毎日新聞論説主幹)「憲法をどう考えるか」
5 会場との意見交換